皆さん、まず、上の詩を声に出して読んでみてください。
これは、永峯照古さん(75歳/兵庫県桜口教会)の阪神淡路大震災の体験談を、そのまま詩にしたものです。
永峯さんは当時、神戸市灘区の阪神電車石屋川車庫の近くにお住まいで、職場もその車庫でした。以前から、自宅の近所にある教会で、毎朝10時のご祈念の先唱をしておられました。たとえ、一人でも。
人間一人きりは、どこか不安なもの。「何でこんなことをしてるのか」との思いも生じます。永峯さんも大切なご用だと思いつつも、実感が伴わなくなっていたのです。「こんなことして何になるやろ」「おかげって何やろ」と。
震災は、そんな永峯さんを襲い、がれきの下に4時間半、生き埋めになったのです。「このまま死ぬんかなあ」と思いながら。永峯さんは私に言いました。「助けられ、光が見えた瞬間、『あ、これがおかげやってんね』と分かりました。そして、『金光様ありがとうございます』と、声が飛び出たのですよ」と。
お話を聞いて、私は次のように思いました。永峯さんにすれば、震災は「何がおかげか」を分からされた出来事だろう。それは、自分から分かろうとしてもできず、生死に直面して、初めて実感できた分かり方だろう。永峯さんにとって、「生きて今がある」という実感は、この「おかげの分かり方」が支えになっているのだろう、と。
とはいえ、そう理解しても、永峯さんの実感に、私の実感はとても追いつけそうにありません。でも、追いつけないからこそ、永峯さんを支えている、「おかげ」の実感へ思いを行き来することになりました。以来、何度もこの言葉を思い返していたのです。
そのうちにふと、詩にしてみようと思い立ちました。詩にすると、あの時、私に去来した高揚感が再現されました。言葉の向こう側にある、情緒とか実感といわれるような世界へ誘われます。そして、そこから言葉への納得を生み出していくような心の動きを感じ取れるのです。
言葉は、論理的な内容を受け取る道具ですが、他方で詩のように、感性の領域に生じる何かの事態を理解可能にさせる働きも持っています。ですから何げない信心の話も、詩の素質を持つことがあるのでしょう。私は、このような言葉の働きへ思いを寄せ、信心の言葉を受け取っていきたいと思うようになりました。
この詩を他のご信者さんに紹介すると、こんな声が。「こんなんして、言葉使ってるんやね」。永峯さんは答えます。
「もっときれいにもの言えへんかなと思うわ」。すると別の方から、「これで標準語しゃべっとったらおかしいやんか」。それを聞いて、「ありのままやからね」と永峯さん。別の人からは、「そやから実感がわいてるんや。だからみんなに分かるわ」と、信心話に花が咲きました。
永峯さんは、「私は、しゃべりがへたくそやから」と言います。「いえいえ、そうおっしゃらずに。信心についての生き生きとしたしゃべりになってるじゃないですか」
大林 浩治(教学研究所所員)