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青少年活動期間を迎えて

教祖様における親と子の信心生活

 立教神伝には、信心にかかわり、親子をたとえにしたお言葉がある。すなわち、「神も助かり、氏子も立ち行き。氏子あっての神、神あっての氏子、末々繁盛いたし、親にかかり子にかかり、あいよかけよで立ち行き」というお言葉である。

 ここでは、「氏子あっての神、神あっての氏子」という間柄にある神と人とが、「親にかかり子にかかり」のようにかかわり合い、働き合っていくところに「神も助かり、氏子も立ち行き」という世界が生まれ、そこから「末々繁盛」の道が開かれてくるということ。それが神様の願いと明かされていると頂くことができよう。

 この「親にかかり子にかかり」という親子関係について、思い起こされることがある。それは「覚書」に、安政六年の出来事としてつづられた家督相続、くら様の大病、牛使いの譲り渡しという、教祖様ご夫妻と長男・浅吉様とのかかわりを示す一連のご事蹟である。

 これらは一見すると、親としてわが子の思いに顧慮しない、人情を欠いた態度やあり方と受け取られるところがあるかもしれない。けれども、時に、あふれる奥様の親心に揺れ動きながら、教祖様ご夫妻は、ご神命のままに、わが子への人情を離れて神任せとなる信心へと導かれておられる。そのなかで、神様を一心に頼む信心が求められ、おかげの事実が現れ、親と子のなかに神様のありがたいことが染み込んでいく。そこから、父である教祖様の促しに応じて牛に手をかける浅吉様のお姿が生まれ、おかげの事実も生まれ、それのみならず、自身の問題を信心で乗り越えようとされる浅吉様の生活姿勢までもが醸成されていたのではないかと思われる。

 果たして、そのように見れるのか。以下に、その歩みをたどり直してみよう。

 「覚書」によると、安政六年正月、教祖様は、ご神命に従って十五歳の浅吉様への家督相続を村役場に願い出られ、自らは隠居身分となられることを三月に受理される。以来、浅吉様は、家の農作業の手伝いに加えて、年貢の納入をはじめ、村内各所の道路補修工事、下草刈りなどの諸役を継承されていた。しかし、こうした諸役は、村の大人たちに交じってのことで、浅吉様には相当な精神的重荷となったのではないかと思われる。

 次いで、五月の末、九歳のくら様が病気となり、日々病状が悪化するが、教祖様ご夫妻は、「捨ておいて農業へ」とのご神命のままに、昼食に帰ってきた時と、朝晩に娘の様子を見る程度で、昼間はほとんど農作業に出ておられた。そんななか、奥様の「かかさん油断じゃった、おくらは死んだ」という声とともに、夫婦のやりとりがあり、教祖様によるご祈念が始まる。神様からは、「もうよし、暮れ六つまでに験(げん)やる。生き祝いと思うて、ばん役(午後の仕事)、此方広前にて休めい。家内はそばにおってやれ」とのお言葉がある。しかし、不安が拭えない奥様は、再度のご祈念を求められ、教祖様もご祈念をなさり、神様もそれにこたえられる。そして、しばらくの時を経て、病床のくら様が「お母さん、小用出る」と、夢中で玄関口に出て小用をなさる。これを機に、くら様はおかげを頂いていかれた。

 そうとして、わが子を放って農業に出る親の姿や、急変するわが子の容体に対応する両親の姿を、浅吉様は、どのように見ておられたのであろうか。それを知る手がかりはないが、父が語る神様、父と母のやりとり、そこから生まれてきたおかげの事実が、浅吉様の心のなかに強く印象づけられたことだろう。

 こうして、九月の麦まきの時期を迎え、「当年はせがれ(浅吉)に牛使わせ」とのご神命に従って、親子三人、牛の使い始めに近くの田へ出かけられる。この時、教祖様は、奥様の指摘のままに牛の「使いかけ」をされるが、牛が暴れて手に負えない。そこで教祖様は、「私考え、これは神様のお知らせと思いつき、せがれに使え」と申された。即座に、「おせ(大人)の手に合わんものが子供の手にどう合うものか」との母子の反発。「わが手に合わいでも使うてみい、らくじゃ」と教祖様が言われ、それに促されて浅吉様が牛に手をかけられると、牛は静かになり、浅吉様の手に従って動きはじめた。こうした経験がなされ、牛使いのことが譲り渡されて、この年十月、教祖様が立教神伝を拝受されたのである。



 青少年育成期間を迎え、以上のような、教祖様における親と子の間の出来事をとおした信心の葛藤(かっとう)や、そこに生まれる「神も助かり、氏子も立ち行き」の世界に思いを寄せ、子どもたち一人ひとりの成長を願われる神様のみ心に添った信心生活や取り組みを、ここから共々に求めてまいりたい。
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投稿日時:2009/03/03 15:02:06.752 GMT+9



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