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結界取次の充実を願って

教会長信行会 5月から7月にかけ 6回に分けて開催

 立教150年の節年を迎え、ご祈念、神習、講話、班別懇談、自主信行を柱とした教会長信行会が、教主金光様御取次のもと、5月から7月にかけ6回に分けて、金光北ウイングを主たる会場にして開催される。【金光教報-天地】
 このたびのテーマは「結界取次の充実と助かりの実現」であり、そこに迫る視点として、「歴代金光様をはじめ、先人諸師のご信心とご用の実際を頂く」とのサブテーマを設けている。その視点から、第一日目の講話は、教祖様の歩みに立ちかえって、立教の意義を押さえ直し、これからの信心の方向性を求めて、教務総長が担当する。第二日目は、教会布教研究会の成果をもとに、結界取次の充実に向けた具体的な中身について講話がなされる。

 「歴代金光様をはじめ、先人諸師のご信心とご用の実際」の内容は、深遠にして、容易に整理されるものではないが、その氷山の一角を教会布教研究会収集の資料に見ると、お道が伝わっていくところには、必ず「神の喜び、神の助かり」につながる内容があることに気づかせられる。次に紹介する先師による取次の実際は、その一例である。

「神の喜び、神の助かり」という内容へと

 漁師三人が参拝し、「3年不漁続きで、今年は年が越せない。何とぞ漁のありますよう、ご祈とうをお願いします」と申し出た。
 先師は、「ご祈とうというのは、神様に助けてもらいたいということであろう。神様に助けてもらいたいのなら、助けてもらえる心にならねばならぬ」と、諄々(じゅんじゅん)と天地のご恩を説き、「いかほど人が賢くても、米一粒、魚一匹、作ることができまい。…漁師は、神様がお作りなされ、お養いくだされてある魚を捕って世渡りするが、魚代といって海にお金を入れたものはない。ただ捕りである。云々」と、お道の基本を説かれた。それを聞いた3人の漁師は目に涙を浮かべて、「ありがとうございます。今までは何も知らず、実に相済まぬことをしておりました」とおわびを申し上げた。
 そこで、先師はご祈念をされ、「南西二里余りの所から、ボラがわいてこちらへ押してくる。船の用意をして急げ」と、神様のお知らせを取り次がれたという。

 また、別の先師は、座骨神経痛で参拝した者に対し、「『たこに骨なし、ナマコに目なし』というが、たこに骨膜炎、ナマコに眼病はあるまい」と切り出され、「あなたも座骨がなく、足がなかったら、座骨神経痛で足が痛むことはなかろうが。足があり、座骨があるから、病気にかかり、足が痛むのじゃろう。ところが、足があるといっても、ただ足があるのでなく、親神様から頂いているので、足がある」と、骨のあることも、足があることも神様のおかげであると説かれ、最後に、「信心とは、これまで頂いてきた大みかげのお礼であり、お願いは、これから先のこと。そこがよく分かり、お礼とおわびが心からできたら、すぐにおかげが受けられる」と諭された。
 この参拝者は、参る時にはつえにすがり、休み休み来た道を、帰りには休憩もなく、帰宅できたという。そして、後に金光教教師となって、生涯その身をお道にささげられたのである。

 私たち人間が、天地の間に生かされていることを実感するためには、自分を見つめることが欠かせない。日常の生活で当たり前のこととしてあるものが、実は広大な天地の恵み、神様のお働きなくしては、あり得ないほどのこと、ありがたいことであったと気づかされていく。それがお取次をとおして実感された時、そこに親神様からご覧になっての「神の喜び、神の助かり」という中身が生まれることになるのである。

 前述の、漁ができるように、病が治るようにという願いは、今日でもあり続けている事柄である。そのような願いが持ち込まれた場合、その願いに終始し、お道を伝え、天地のご恩、神様のお働きのなかに生かされてきたお互いであることに目覚めさせるという、「神の喜び、神の助かり」につながる内容の取次が、果たしてどれほどなされているであろうか、と自問させられるのである。

 このたびの信行会をとおして、教祖様はじめ歴代金光様、直信、先覚、先師のご用の実際に立ち返って、各人のこれまで頂いてきたおかげは、このお道のお働きのなかでのことであり、自分の信心もこのお働きのなかで育てられてきたものとの自覚を新たに、「神の喜び、神の助かり」という内容へと展開し、立教150年以後、われわれが目指すべき信心への第一歩とさせていただきたい。
メディア 文字 巻頭言 

投稿日時:2009/04/27 15:47:09.306 GMT+9



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