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秋季霊祭をお迎えして

この道の先輩方のご信心を わが身に

 秋分の日を迎える九月となり、本部広前をはじめ各地の教会で霊祭が仕えられる。今年は、立教百五十年のお年柄に当たり、五月から七月にかけて教会長信行会が六回にわたって開催され、教務総長や講師の講話をとおして、教祖様をはじめ、直信先覚先人方のご信心とご用ぶりをたどらせていただいた。また、八月八日からは、「この道のおかげの自覚をもとに、信心生活を進める」を願いとする百日間の信行期間に入っている。そのこともあってか、この道の霊神とお祀(まつ)りする先輩方のご信心を、少しでもわが身に頂かせてもらいたいという思いを強く感じる。【金光教報-天地】

 形がなく、目には見えない信心であるが、先輩方のご修行ぶりやご信心ぶりとして現された足跡は、目に浮かべることができ、心底から神様を頂かれ、その身から打ち込まれずしては、そうはなるまいと感じさせられる。

 直信・近藤藤守師の夫人である玉露姫は、表にこそお出にならないが、教団の草創期にあって手厚い信心をもって添え柱として真心を尽くされ、一方では、教祖夫人の「大明媛」を頂いての「大明講」という女性の団体を組織され、災害救援などの社会事業に大いに貢献されて、明治二十七年に四十二歳で帰幽された。佐藤範雄師が涙を抑えながら祭詞を奏上されたその三十年祭に、高弟たちが姫をしのんで語った講話が残っている。

 その一人、畑徳三郎師は、遺徳と功績をしのぶなかで、「『生きたくば神徳を積みて長生きをせよ』と教えられしは、寿命のある限りは信仰をして徳を積み、死しての後は天地にかえるので、よしや肉体はなくなるとも永遠に生きよ、とのみ教えであって」と述べ、「自らどれだけお道のご用に立たれたかということは別にして、陰ながら真心をもって、自らお努めなされたみ徳が残って」と、自身が身近に触れた日常のあられようを顧みて、「真実の腹の底より出たる誠の心ほど、世の中に尊いものはありません。お道のうえから申しても、真心と書いても、信心というので、真心から神様に向かうのが信心であり、神様に向かう信心をもって世の中に処していくのが真心である。すなわち、真心と信心は一つなのであります。信心する人が、ただ神様の前で祈って一途にみかげを受けるだけが信心ではないので、祈ってみかげをこうむり、ありがたいと感じたならば、このありがたいという一念が世の中の万事に現れてこなくてはならぬので、この衷心から現れたる真心こそ、それがどんなに些細(ささい)なるものであっても永世までも残り残って、消え失せることのないものである」と、その積まれたお徳を表現している。

信行期間の中身ともして

 この講話では、故人の徳をたたえしのぶ中身として、それが特別な業績ではなく、日常のありようのなかに見いだされている。すなわち、真心から神様に向かうのがこの道の信心であり、その信心から生み出される「ありがたいという一念」「(神様に向かう)真心」が、世の中に処して現される時、それがどんなに些細な事柄であっても、その真心(信心)こそが永世までも残るものとたたえられているのである。

 そこで、こうした先師の信念に、教祖様の「信心しておかげを受けたら、神心となりて人に丁寧に話をしてゆくのが、真の道をふんでゆくのぞ」とのみ教えを合わせて見わたしてみると、今日まで、教師・信徒を問わず、地道な信心生活を積み重ねて、自身も周囲もおかげを受け、信心を受け継いだ家族から、生きて働き守ってくださる霊神として尊び慕われる信心の先輩を数えるのに、さしたる苦労はないであろう。

 われわれが今月今日、この道のおかげをこうむっている元に、こうした先輩方の、ある意味でシンプルな、そして日常の行いと不可分の地力に裏打ちされた信心の積み重ねがあることを思う時、霊神と立たれた先人たちのお徳をしのばせていただき、御礼を申し上げるとともに、一人ひとりの毎日の生活に、少しでも信心が神様への真心として現れ、近親者に限らず、いまだ名も知らぬ人々が、これから信心のおかげを受けていくこの道に、土の一つかみでも培うことができるように、そして、万分の一の力にでもならせていただきたいものと願わずにおれない。

 信行期間の中身ともして、共々に心をこめて霊祭をお仕えさせていただきたい。
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投稿日時:2009/08/28 10:15:49.467 GMT+9



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