title.jpg

HOME › 青少年への信心の継承 ─夏の青少年活動期間に当たって─

青少年への信心の継承 ─夏の青少年活動期間に当たって─

金光教報 『天地』 8月号 巻頭言

 ある信徒研修会で、「子どもさんに信心継承はできていますか」というアンケートを行ったところ、七割以上の方が「できています」と答えたという。ところが、ほとんどの教会長は、信心継承が課題であるという思いを持っていた。不思議なことのようだが、アンケートに答えた親たちからすれば、一年に一度でも子どもが教会参拝すれば、それでも喜びであり、それをきっかけにして、一度でも多くの参拝につながってほしいと、願いを込める。
 しかし、そうした場合の多くは、自分の信心よりも子どものあり方を問題にし、どうすれば子どもが参拝するようになるか、その手立てだけを考える。しかし、自ら判断できるようになった子どもは、親の言うことは理解しながらも、自分の事柄を優先し、さまざまなことを理由に参拝しなくなってしまう。「子どもの頃は、よく連れて参っていたのですが」という話に、思春期を過ぎた青少年への信心継承の難しさを思う。
 しかし、そうした親子の擦れ違いも、信心生活を見直すことで開かれてくることがある。ある夫婦が、子どもを連れて月例祭に参拝したが、帰りの車中、ささいなことから口論となり、気まずい雰囲気になった。すると、同乗していた子どもから、「お父さんとお母さんは、せっかく教会でありがたいお話を聞いたのに、けんかしている。何のために信心しているの」と言われ、夫婦は沈黙してしまった。
 後日、その夫婦が教会に参拝し、「私たちが至らないばかりに、子どもにそのような思いをさせました。どうぞここから、改まらせてください」とお届けした。そして、家庭での信心のありようを見つめ直し、教会への参拝を続けた。その後、子どもは教会参拝をとおして神様に向かい、自ら改まっていこうとする両親の姿を見て、信心するようになった。
 ある先師は、「子どもは親のすることを、知らず知らずに見習うのです。親が口でばかり言って、してみせないのは、本当の教育になりません。神様を拝むのでも、拝め拝めと、うるさく言うよりも、一緒に来て拝みなさいと、連れて拝むようにすれば、それが習慣になるのです。子どもを育てるには、どうしても親が信心をはっきりさせてもらっていないと、どうにもならぬと思います。親の真(まこと)が子どもを育てるのであって、子どもには親の平生すること、為すことが、自然に移るのです」と語られている。つい子どものありようを問題にし、親としてのあり方を省みることを忘れがちになるが、まずは親自身が改まって信心を進めることに、心を尽くすことが大切であろう。
 四代金光様のご理解に次のようなものがある。
 「『私のところは主人がお参りしませんので、どうぞ、主人が参りますように、お引き寄せ頂けますように』とお願いされる方と、『私が信心を進めて、夫婦もろともにお参りできるようにおかげを頂かせてください』と願われる方がおられますが、私は、あとに申しました方のほうが早くお参りになるという事実に、たびたび出合わせてもらいます」
 先ほどの先師の言葉も重ね合わせながら、信心継承にはまず、「私が信心を進めて」ということが大切な中身であるように思われる。事実、「どのように親から信心が伝わったか」という話を聞かせてもらうと、多くの方が「親の信心姿勢に学ばされて」と語られる。親が教会に参る姿、ご祈念をする姿、ご用を頂いている姿、そうした御礼と喜びの姿にひかれ、自分たちのことを願ってくれている事実に触れて、信心の道に目覚めさせられた方が多い。
 そして、何より忘れてならないことは、そうしたことが整っていくためには、神様のお働き、おかげなくしてありえないということである。人間心をもって、あれやこれやと工夫を凝らすだけでは、やはり届かないものがある。「子どもたちに信心が伝わっていきますように」と、どこまでも神様に祈り願い続けることが大切である。
 今夏も、青少年の育成と信心継承を願って、ご霊地をはじめ各地でさまざまな行事が催される。こうした行事への参加をとおして、一人でも多くの青少年が、この道の信心に触れて育つことを神様に祈り、親として、自分の信心が神様の喜ばれるありように一歩でも近づけるよう願わせられる。

投稿日時:2013/08/10 14:42:14.543 GMT+9



このページの先頭へ