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結界取次の充実に向けて─『取次に生きるⅢ』の刊行に当たって─

金光教報 『天地』10月号 巻頭言

 悠久の天地の営みのなか、今年も実りの秋を迎え、教祖百三十年生神金光大神大祭が、教主金光様ご祭主のもと、十月三日、六日、十日、十三日の四日にわたり、本部広前で執り行われ、そのごひれいを頂いて、各地のお広前でも同様に仕えられる。
 教祖様は、安政六年に「立教神伝」をお受けになり、難儀な氏子を取次ぎ助けるため、家業を止め、死んだと思うて欲を放して、専心ご神前に奉仕されることとなられた。そして、明治六年には「天地書附」を頂かれて、結界の場が定まり、また十月十日に頂かれたご神伝により、生神金光大神取次の内容が示されるとともに、教祖様は世を救うために神様から差し向けられた者であることが明らかになった。
 ご晩年には、万国まで道を伝えたいとの親神様の願いをお受けになり、「体がなくなれば、願う所に行って氏子を助けてやる」と、かねてのご理解のとおり、ご神願である「神人の道」成就のため、永世生き通しの取次の神「生神金光大神」として、永遠にお働きになることをお示しになり、お隠れになられた。
 それで本教は、「生神金光大神取次の道」であるといわれているのであり、その内容を教規前文では、「神と人とを結び、神と人と共に助かる神願を実現していくはたらきが、生神金光大神取次である」と記されている。
 その生神金光大神取次の中心は結界取次であり、それは各教会の中心の働きでもある。各教会の結界取次が充実していくことが、「教団の布教」を展開していくうえでの重要課題であるとして、「結界取次の充実と助かりの実現」を活動方針の柱に据え、その内容として教会布教研究会で編集に取り組み、『取次に生きる』の第一集および第二集を刊行し、このたびの教祖百三十年生神金光大神大祭時に第三集を刊行することになった。 
 生神金光大神のお手代わりとして、各教会の結界奉仕をされる先生方の力になるもの、結界取次に資するものとの願いをもって刊行してきた『取次に生きる』であるが、第三集は、「祈り」「修行」「信心辛抱」などについて、先師が具体的に取り組まれた事例を内容としている。

 ある先師は、師匠から「それそれに行き詰まっているが、そこから抜け出せる出口はどこにあると思うか」と問われ、「おかげの横領をしている自分を分かることであります」と答えたという。
 それは、おかげに込められた神様の願いに対し、おかげを頂いた自分が何をすればいいのかという思いや、神恩報謝という思いの足りなさが表現されたものであり、そこに道の発展に欠かせない内容を感じるのである。
 別の先師は、「数々のおかげを頂き、ありがたいばかりで、この身はいつどうなっても何の不足もない。神様から、いつお引き取りいただいても何の不足もない」という話をしている時、師匠から、「それは心得違いじゃ。自分もそんなことを思うたこともあり、口にしたこともあるが、後に気づかせてもらった。それは誠に美しい心のようにもあるが、思いようでは、もらうものは十分にもらったから、何の不足もないということになる。それでは神様にすまぬ。それで自分は、この至らぬ者をかくまでお恵みくだされたのに対して、万分の一のお礼奉公させていただかねばならぬために、健康を祈り、長寿もお願いしている」という言葉を受け、師匠の祈念、修行、ご用の土台をなすものに触れ、恐れ入ったと述懐されている。
 教祖様の、四十二歳の大患から「立教神伝」拝受に至るご信心の歩みをうかがうと、おかげを頂いた者の生き方として、先師が師匠から注意を受けた内容と同じ趣旨のものが示されているように思う。すなわち、「喉もと過ぎれば熱さ忘れる」ということになるのではなく、年々におかげの自覚を深めていく信心の深まりであり、神様の頼みを受けてご用に立つことを喜びとし、そして、そのおかげに込められた神様の願いに応え、神恩報謝に生きようとする生き方である。「死んだと思うて欲を放す」ところまではいかなくても、おかげに込められた神様の願いに添う生き方になっていくことを、神様は切に願っておられると頂くのである。
 『取次に生きる』に登場する先師たちは、神様を求め、人を導くために教祖様に神習い、「祈り」「修行」「信心辛抱」の内容を創意工夫し、おかげの自覚を深め、神様を実感し、神徳のなかに生かされ、取次ぎ助けられている喜びを信心の核となし、神様の願いに添い、神恩に報いることを信仰のエネルギーとして、生涯を道に捧げていかれた。その姿は、後に続く私たちの姿勢を厳しく問い、信心の展開を促してくれる。

投稿日時:2013/10/02 10:45:24.407 GMT+9



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