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お取次頂き感謝の生活【金光新聞】

嫁ぎ先で金光教の教えに出合い

 子どものころから、食べ物や身の回りにある物を粗末にしてはいけないと祖母や母に言われてきた私(56)は、「もったいない」が口癖となっていました。
 そんな私が、金光教の信心をしている家庭に嫁ぎ、初めて金光教の教えに出合いました。
 最初は何も分からず不安でしたが、見よう見まねで教会に参拝する中で、人は一人で生きているのではなく、天地のお恵みの中に生かされて生きているというみ教えを知りました。
 そうして金光教の教えに触れていく中で、小さいころから身に付いた「もったいない」と思う心と、全ての物に感謝する心は、同じであること気付かせてもらい、金光教により親しみを覚えました。

 ところで、当時の私は、教会に参拝して神様に手を合わせてお礼を申し、お願いさえしていれば、神様からおかげを頂けると思っていたのです。今思えば、それまでこれといった難儀もなく過ごしてきたことで、それでいいのだと思っていたところがあったのです。
 そうして月日は流れ、聡明であった義母に認知症の症状が現れ始めました。やがて、物忘れがひどくなり、妄想の世界が入り交じるようになってきました。
 最初は戸惑いながらも、同じ話にも相づちを打ち、義母の言葉を否定することなく受け答えをしていました。けれども、症状がエスカレートしていくにつれて、私は次第に心の余裕をなくしていったのです。

心に余裕が生まれてくると

 そんなある日、教会に参拝すると、お結界の先生から、「最近、お母さん(義母)はお元気でいらっしゃいますか」と尋ねられました。その言葉に思わず、「実は…」と、ありのままをお話ししていました。
 いつも前向きで感謝を忘れなかった義母でしたが、このころには、言いたいことや、したいことを思い出せないことが歯がゆいのか、「生きていても何も良いことなんかないから、早くお迎えが来ればいいのに」 と、 投げやりな言葉を口にするようになっていたのです。
 先生は、私の話をしっかり聞いてくださり、「一緒に願わせて頂きましょう」と言われました。
 私は、そのお取次を通して、とても心が楽になりました。同時に、今までの参拝は、うわべだけのもので、お取次も日頃のあいさつ程度でしかなく、いかに独り善がりの信心だったかと気付かせられました。

 その日以来、参拝のたびに、まずお取次を頂き、その後でご祈念させてもらうようになりました。そうして、私の心に余裕が生まれてくると、義母に対する接し方にも変化が生まれました。
 「朝、目が覚めて起きてこられるだけでもありがたいよ。まず何をしようか考えて一つずつこなしていけば、ため息なんかついてる暇はないよ。ありがたいね。外に出たら何か花が咲いているのを見つけることができるかもしれないよ」。そんなふうに、自分にも言い聞かせながら、義母と会話ができるようになっていきました。
 どんなにささやかでも、必ず新しい発見や出会い、感動があるはずで、それに気付かず毎日を過ごすのは、もったいないことです。日々、新しい命を神様から頂き、生かされて生きる喜びを大切にしたい。そのためにも、お取次を頂き、神様のお導きを得ながら、義母を励まし、私自身も感謝の生活をしていきたいと思います。

※このお話は実話をもとに執筆されたものですが、登場人物は仮名を原則としています。

(「心に届く信心真話」金光新聞2015年11月15日号掲載)

メディア 文字 信心真話 金光新聞 

投稿日時:2017/05/02 09:00:00.000 GMT+9



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