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戦没者の立ちゆき祈る【金光新聞】

平和への慰霊碑

 私が奉仕する教会近くの公園に、「殉国之塔」(広島県呉市)という慰霊碑があります。太平洋戦争末期、米軍による日本海軍の呉の軍需工場への空襲で亡くなった476人の追悼と、その悲しい出来事を後世に伝え、平和の礎になることを願って建立されたものです。
 その慰霊碑がこの公園内に移設された時期と時を同じくするように、私の奉仕する教会もこの地への移転を取り進めていました。私は、小高い場所にあるその公園に毎日のように足を運び、建築中の教会の様子を確認しながら、工事の安全と竣工成就を祈りました。

 そうして公園を訪れている中で、その慰霊碑のお世話をする保存会の方と出会い、いろいろと話を聞く機会ができました。
 その方から、ここに祭られているみたま様の中には、工場の労働力として県外から動員されていた14歳前後の女子たちも含まれていることや、毎年、空襲があった6月22日には慰霊祭が執り行われ、地元の中学生が平和学習の一環として参拝していることなどを教えてもらいました。
 私の父方の祖父と母方の祖父母も戦中に命を落としています。特に母方の祖父は、戦地への移送中に、乗っていた船舶が撃沈され亡くなりましたので、骨は見つかっていません。母からそのことを聞かされてきた私は、「これは決して人ごとでも、昔のことでもない。神様が私に戦没者のみたま様を拝んで供養するようにとおっしゃっている」と思いました。

参拝を続ける中で

 それから毎日、慰霊碑に参拝し、みたま様の立ち行きをご祈念させて頂くようになりました。時には保存会の方と一緒に公園の清掃をさせてもらいました。
 教会がこの地に移転してくることについては、地域の中に宗教への不信感や警戒心からあまり良い思いを持っておられない人もいたようです。
 しかし、私が毎日、慰霊碑に参拝を続ける中で、いろいろとつながりもでき、いつしか「金光さん、金光さん」と声を掛けてもらえるようになりました。そして、教会の落成式には慰霊碑の保存会の方も参拝してくれました。 この地に教会が移転して6年目。今では、慰霊碑前で毎年仕えられている慰霊祭の際に、テントの設営の手伝いや電源の供給、そして教会境内を臨時駐車場として使って頂くことなど、地域の一員としてもお役に立たせてもらっています。

 神前拝詞の一節には、「総氏子身上安全世界真の平和のご神願 成就せしめたまえと願いまつる」とあります。
 その昔、軍需工場が立ち並び、戦争のための道具を製造していたこの地に開かれた教会で、人の幸せと助かりを願う、お道のご用に当たる者として、どのような祈りを持って、今の時代に何ができるのかということを、私なりに求めてきています。
 今、私の手元でさせてもらえることとして、教会のご霊前に、慰霊碑に祭られている476柱のみたま様の名簿をお祭りするとともに、日々のご祈念の中で金光教広島平和集会時にお唱えする「平和祈願詞」を上げています。
 また、毎月教会でお仕えしている霊祭の祭詞の中で、476柱のみたま様の立ち行き、そして世界の平和と人類の助かりを祈らせてもらっています。
 教祖様が願われた、争いのない平和な世となるよう、一層祈りを込めていきたいと思っています。

※このお話は実話をもとに執筆されたものですが、登場人物は仮名を原則としています

(「心に届く信心真話」金光新聞2015年6月7日号掲載)
メディア 文字 信心真話 金光新聞 

投稿日時:2017/06/07 10:24:50.888 GMT+9



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