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「あいよかけよの世界」を今の世に

金光教報 「天地」6月号 巻頭言

 今の独善的な世の中を見ていると、「私には夢がある。いつか『あいよかけよ』を世界の公用語にするという夢が」と言ってみたい気がする。
 「あいよかけよ」とは、本教独自の信仰的な表現である。本教は「神と人とあいよかけよで立ち行くあり方を世界に顕現するため」に存在すると教規にうたってあるから、本教信仰の根幹をなす大切な表現であると言ってもよい。そして、教祖様は「あいよかけよで世は治まる」とご理解されており、人間社会の究極的な助かりの世界を表現する言葉とも言える。
 ところが、この「あいよかけよ」という言葉は、教典の中に、たったの4例しかない。これに気付いた時、本当に不思議な思いがした。それなのに、この道が「神人あいよかけよで立ち行く道」と位置付けられたのは、先覚先師の鋭い視点があったからであろう。

 三神伝と言われる中の立教神伝と元治元年のお知らせの文末は「あいよかけよで立ち行き」「あいよかけよで頼み合いいたし」と締めくくられている。二つのご神伝は、これから先どうなるか分からない事態の中でのものである。そこで、神様は「神と人とあいよかけよで」と仰せられたのである。と、思う時、今の混沌とした現代社会に「あいよかけよ」の信仰世界を現すということが、どれほど願われているかと思うのである。
 そして三神伝の、残る一つのご神伝には、「あいよかけよ」という文言は見られないが「氏子あっての神 神あっての氏子」と記されてあり、この「あっての」という考え方が、「あいよかけよで立ち行く」ための根本思想と思われる。
 「あいよかけよ」という言葉は、岡山地方の方言であり、駕籠(かご)かきの合言葉と聞いている。二人の駕籠かきが「あいよ」「かけよ」と声を掛け合いながら、荷物や人を運んでいく。教祖様のイメージが、この合言葉であるならば、神様と人とが「あいよ」「かけよ」と声を掛け合いながら、一つのことを成り立たせていく姿が描かれる。神様と人との声の掛け合い。これは、「神様、どうさせてもらいましょう」という言葉掛け、まさに祈りによる対話の姿とつながってくる。

 教祖様に神様からのお知らせが下がり始めるのは安政5年。そして、そのすぐ後に「秋中、行せい」とあり、具体的には、はだしで農業に出よとある。
 神様の仰せどおりにしようとする教祖様に向かって、奥様が声を掛ける。「あなた、はだしでは、信心ばかりしてわらじも作らぬと人が笑います」。教祖様は、「バカモン。何を言うか」と突っぱねず、神様にお尋ねになる。「家内は神様のおかげを知っているのに、世間体を気にしております。どうさせてもらいましょうか」と。すると神様は、「家内あってのお前ではないか。どうしたらよいか考えてみい」とお答えになる。教祖様は、熟慮されて、わらじを鍬の先に引っ掛けて農に出られ、「わらじが足に食い込んで痛いので、はだしなのです」と言いながら、奥様の意も汲み、神様の仰せどおりに行を遂行するという「あいよかけよの世界」を現実の生活の中に顕現されたのである。
 私は、この在り方に「あいよかけよ」の原型を見出すのである。教祖様は「神様あっての自分」であるとともに、「家内あっての自分である」との認識がおありになったと思う。
 「あいよかけよで、双方、立ち行き」と言われるあいよかけよの在り方を、どんな場面でも「神様、どうさせて頂いたらよろしいでしょうか」と、お尋ねしながら、現していきたいと思うのである。

金光教布教部長  浅野 弓

投稿日時:2018/06/01 08:46:10.884 GMT+9



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