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「ありゃ、神様じゃのう」~藤井くらさんの言い伝えより~

金光教報 「天地」7月号 巻頭言

教祖様には、こんな話があります。娘の藤井くらさんが伝えているものです。

夏天気よきに畑より帰りて入れられたるに、そうするに雲出でて大夕立したり。祖母様やかましき人にて小言を言ふに、其通になるにより、
「ありゃ神様じゃのう」と感心し居られたり。
(金光大神事蹟集[六]・『金光教学』第29号118頁)

 理解しにくい文章なので、少し説明を加えます。 晴れ渡ったある夏の日のことでした。畑へ仕事に行っていた教祖様は、なぜか家に戻ってこられました。すると雲行きが怪しくなり、ついには激しい夕立になりました。おばあさんのいわさんは当初、「晴れているのに、なぜ戻ってきたのか?」と、ぶつぶつ言っていたようです。でも、激しい夕立になったのを見て、いわさんは、「ありゃ、神様じゃのう」と、教祖様に感心なさったという話です。
 くらさんには、いわさんは「やかましく小言を言う人」に映っていたかもしれません。でも、それほど遠慮のない関係だったと言えますし、それ以上に私には、年を取って若い頃のように動けなくなった、一抹の寂しさをいわさんに感じるのです。いわさんにすれば、せめてもの思いで、あれこれ気配りなさっていたのでしょうが、それが、くらさんには小言のように聞こえたのかもしれません。
 これは、教祖様が畑仕事している時分ですから、安政6年(1859年)のご立教よりも前のことです。この時が安政5年だとすると、くらさんは数えで8歳、いわさんは68歳でした。また、この話をされたのは、明治43年(1910年)で、くらさんは還暦を迎えていたことになります。こんなことを考えてしまいました。「口うるさくなるのは、くらさんにとっても身に迫る問題だったのかもしれない」と。当時は、「また、おばあさんが文句を言っている」と思ったかもしれないけれど、年を重ねて分かるのは、いわさんのそんな姿ではないかなと。
 いわさんに注目すると、興味深い光景が浮かび上がります。どぎまぎするくらさんをそっちのけで、「ありゃ、神様じゃのう」と教祖様に感心しています。この一言で、くらさんは救われたのではないでしょうか。くらさんだけではありません。家族みんなが救われたのではないでしょうか。
 この話をある若い人に紹介すると、こう言いました。
 「いわさん、最高!」
 「えっ? どういうこと?」
 「いわさんの愚痴を聞いて、私なら、『勘弁してよ』ってなるし、でもその後、『ああ、いけない。イライラしたら自分が負け』ってなって、自分の姿勢を問題にしちゃうんですよね。でも、いわさんはそんなこと、お構いなしでしょ」と答えました。
 私は納得し、こんな話をしました。
 「信心の問題として考えてみるとどう? 『どうしたらイライラを相手にぶつけなくて済むか?』『どうしたら相手が納得してくれるか?』ってなると、自分のことだけに終始してしまうけれど、いわさんって、いいよね。ぶつぶつ言ってたことなんかお構いなしで、『おぉ、すごい! 神様だ!』って言っている。どこか、笑えるよね」
 すると、その人は言いました。
 「そうそう、『その手があった』って感じです。この話を聞いて、両親の口げんかが思い当たりました。けんかをすると、決まってお父さんはムスッとして、お母さんはイライラして。子どもの私は、『まったくもう』ってなる。でも、その手があったんですね。どっかに神様を見つけなきゃ。私も『ありゃ、神様じゃ』って言おうっと」
 教祖様は、神様から「天に一家をこしらえてやるぞ」と言われ、天気の様子が分かっていたとされます。これは、そんな様子が分かるお話ですが、私には、いわさんのとっておきの話となりました。
 7月を迎え、今年も暑くなりそうです。夕立もあることでしょう。ここで紹介したお話は教祖様の時代、そんな夏の日にあった出来事です。

(大林 浩治・教学研究所長)

投稿日時:2018/07/02 08:46:10.884 GMT+9



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