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悲嘆の中で知った親心【金光新聞】

苦悩の中で子供を授かる

 私(63) の父は、 先の戦争時、部隊を率いて過酷な戦場を生き抜きました。味方を守るためには、敵を殺すしかなく、父自身も紙一重で死を免れたことが50回はあると言っていました。
 敗戦後、復員が遅れて行方知れずだった父は、皆から戦死したものと思われていました。それでも、父を幼いころからかわいがっていた教会の先生だけは、生きて帰ってくることを信じて疑わず、毎日ご祈念してくださっていました。
 そして約1年半後、先生が祈っていた通りに父は帰ってきました。父は先生に願われるままに、教会に入り修行生活を始めました。しかし、戦場で常に生死と隣合わせだった父の心は、すさみ切っていて、神を拝むことの意味すら分からなくなっていました。

 ある時、そんな父に先生が、「あんたの命は生まれる前から願われ祈られてきた。どうぞ神様のご用に立たせて頂く子を授けてくださいと、かねて両親は願っておった。だから、今まであんたの命のことは、神様に責任をもって祈ってきたのぞ」と、語ってくれたそうです。それを聞いて、父は生まれる前から自分に掛けられてきた願いを知り、ここから進むべき道がはっきりとしたといいます。
 金光教教師となった父は、ある教会を一人で守っていた母と結婚し、夫婦でご用を始めました。しかし、父は、戦場での記憶にさいなまれ、人を助けるご用とその祈りがなかなか自分の中で確かなものとならず、苦悩し続けていたそうです。
 そんな中、待望の第1子を授かり、やっと平和を実感できた喜びからか、幸子と名付けました。文字通り幸せなひとときだったのでしょう。しかし、それも長くは続きませんでした。病気のため、わずか3歳で亡くなってしまったのです。

親心と神様のみ心

 私が子どものころに、母がよく「幸子ちゃんはね、目がくりっとしてかわいかったのよ」「カランコロンと、かわいらしいげたの音をさせていた」などと、姉の思い出話を聞かせてくれました。その一方で、姉が着た服やおもちゃなどは押入れの奥にしまい込んでいました。目にしてしまうと、よみがえってくる悲しみに耐えられなかったからでしょう。
 納骨して3、4日後の夜、父はしとしと降る雨音に目を覚ましました。「幸子が一人、山の中でぬれている。せめて傘だけでも差してやらねば」。そう思った父は、裏山のお墓に行こうとし、母に止められました。この話を聞かされた時、私は「親心」とはこれほどのものかと思いました。
 かわいいわが子を失い、悲痛な思いを通して知った親心。父は自分が味わった嘆き苦しみを信者さんに味わせてはならないと、日々必死に祈り続け、初めて人のことを祈れるようになったそうです。そうした中で親先生が祈り続けてくださった親心を知り、氏子をかわいいと思う神様のみ心に触れたのだと思います。その親心が父のお取次のご用を支えました。

 その後も、父は生前、幸子と呼んでいたわが子ですが、ご霊前に向かうとご霊神様として拝み、ご祈念をしました。わが子のみたま様に、どれほど信心を教えられ、ご用をする力になってもらえたことかと、父は私にそう教えてくれました。
 そうした両親の信心によって、私の中にも姉が生き続けています。そして、両親がそうであったように、私の信心も導いてくれていると強く感じるのです。

※このお話は実話をもとに執筆されたものですが、登場人物は仮名を原則としています

(「心に届く信心真話」2017年8月20日号掲載)
メディア 文字 信心真話 金光新聞 

投稿日時:2018/10/25 11:26:14.249 GMT+9



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