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平坦ではない生あってこそ【金光新聞】

現代の難儀と向き合う、これからの教祖像

 昨年刊行の『金光大神事蹟に関する研究資料』をはじめ、近年の教学研究からは、「家族」の問題や「金銭」の問題、そして社会の制度や構造の問題と、まさに現代に生きるわれわれが直面しているような時代社会の難儀を、誰よりも先んじて歩んでくださった教祖様の姿が浮かんできている。
 
 昨年、映画『男はつらいよ』公開50周年を記念したドラマ『少年寅次郎』が放送された。主人公・車寅次郎の出生の秘密から知られざる前半生を描き、本編を改めて見返したくなる同ドラマに、私は資料環境の変化によって、改めて高まる教祖探求の気運に通じるものを感じていた。養母や義兄妹への思いを抱えて生きる、少年寅次郎の姿に胸を締め付けられつつ、帝釈天(たいしゃくてん)のお膝元で、住職に叱られながらも、常に神仏に手を合わせながら育つその生い立ちに、教祖様を重ねてみたくなったからだ。
 寅さんの過去といえば、旅先でまどろむ寅さんの夢として描かれた例もある(第39作『男はつらいよ寅次郎物語』)。病死した商売仲間の息子・秀吉に出会い、共に母親探しの旅に出る様子を描いた同作では、秀吉の境遇に自分の過去を重ね見る寅さんの心情が示唆されていたが、その劇中で、寅さんファンならピンとくる名言が飛び出す。それは、大学受験に悩むおいっ子・満男による、「人間は何のために生きてんのかな」という、ぼやきへの応答であった。
 「何て言うかな、ほら、ああ、生まれてきてよかったなって思うことが何べんかあるだろう、そのために人間生きてんじゃねえのか。そのうち、おまえにもそういう時がくるよ」
 その言葉の裏で寅さんは、母親と涙の再会を果たした秀吉の様子を、過去の自分に重ねていたかもしれない。

 さて、ここには、山本定次郎師による、次のような伝えに通じる世界が開かれていないだろうか。
 はじめてお参りした時、私がまだ何も申しあげないのに、金光様の方から、「人間は、どうして生まれ、どうして生きているかということを知らねばなりませんなあ」
と話しかけられたので、私は、金光様は何を言おうとされるのだろうかと思った。その時の天地のお恵みについてのみ教えは、一言一言が胸に突きささるようにこたえて、たいへんに感激した。
 ここでの「み教え」の内容は、今として明らかではないが、その「一言一言」は、教祖様の人間としての生の一歩一歩の切実さ、またそれ故の人々との具体的な関わりに浮かぶ信心への手掛かりとして、このたびの『研究資料』の様相にも通じているように思う。

 間違えやすく安定しない、人間の生の危うさを表徴しつつ、しかしだからこそ、他者のために「暇」を惜しみなく差し出せる寅さんは、イエス・キリストとの類似性を指摘される(米田彰男『寅さんとイエス』筑摩書房)。一方、人生の時系列に沿って信心が進展しなければという見方、とりわけ、そうした話型で描かれてきた教祖像は、今として、もはやその信頼性が失われつつある資本主義経済の成長信仰と、どうも重なって見えてしまう。
 維新期の混乱のさなか、時に人としての間違いや失敗さえも含む、決して平坦ではなかったご自身の歩みを振り返りつつ、信心による助かりの世界を創造的に発見していくそのお姿にこそ、われわれは「教祖」を見いだしてきたのではないか。立教から160年の時を超えて、今、教祖様を求め直すことは、寅さんのあの「トホホ」な笑いが、50年を経て改めて人々の心をつかんでいる、窮屈な現代社会のありようと、無関係ではないように思われてならない。

白石淳平(金光教教学研究所所員)
「フラッシュナウ」金光新聞2020年5月17日号掲載

投稿日時:2020/05/25 14:15:18.915 GMT+9



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