title.jpg

HOME › 第7回 洗脳と育成の違いを考える【信心と理屈の間で】

第7回 洗脳と育成の違いを考える【信心と理屈の間で】

幼少からの教会参拝…これって 「洗脳」 ?

イラスト・奥原しんこ
かんべむさし(SF作家)
 筆者は金光教に、中年になってのち、「横から入った」人間である。だから、子どもの頃から親に連れられて教会に通っていたという人たちを、うらやましく思う気持ちがある。
 なぜなら彼または彼女が、仮に教会の少年少女会に入っていたとすれば、その仲間たちは「幼なじみ」である。「亡くなられた先代教会長は、頭をなでてくれた優しいおじいさんだった」とか、「今の教会長は若先生時代、よく勉強を見てくれた」とか、そんな例もあるかもしれない。身心の成長と教会での年月が、一体化し溶融しているわけで、成人してからも、教会へ行けばそれだけで安心できるのではないかと推測する。
 その経験のない当方、「地方出身者がお盆や正月に帰省して、旧友たちと飲み会を開いたりするのも、似た理由なのかな」と思ったりもする。こちらは父親が複数回転勤したため、本籍地外で生まれ、幼なじみはおらず、今も付き合っているのは、中学時代以降の友人に限られる。それもあって、冒頭に書いた事例も、ついつい理想的に、美しく想像してしまうのだ。
 また、この「子どもの頃から教会に通っていた」という事実は、成長していく過程で、人や社会をどう見ていくかという、その認識と対処の姿勢にも、影響を及ぼすだろう。幼少期に親や教会の先生から教えられたのは、まとめて言えば「真」や「善」に属することであり、「三つ子の魂百まで」の言葉通り、心の底に残って、彼の人生観の土台になるのではないか。
 対して筆者は、宗教には無縁の人間だったから、その土台なしで、人生観をつくってきたことになる。松の木に例えれば、個々の松は土壌の具合や気候条件によって、幹が曲がったり枝が不規則に伸びたりしつつ、それぞれの形を定めていく。当方も、折々の理由があって形が決まったのだけれど、それを40代後半に、いわば自分で自分という松を、別の土壌に植え替えることになったわけだ。
 最初からそこで育ってきた松と比べて、曲がり方や不規則さは大きいに違いなく、それをその時点から矯正しなければならないことになった。すでに固まっているものを直していくのは、正直言って難しい作業であり、冒頭に書いた「うらやましさ」は、その面も含んでの思いなのだ。
 ただし、この「子どもの頃から通っていた」という経験について、作家としては、「宗教を否定する人は、それは幼少期から洗脳されてきたということだろうと、思うのではなかろうか」とも考える。無論、金光教に限らず他宗教の信奉者も、「洗脳なんて、とんでもない」と、それを強く否定するだろう。
 しかし実際のところ、筆者は他の宗教の教えに関して、「ちょっと、あれはおかしいのではないか」と思ったりすることがある。こちらが思うのだから、あちらも思う可能性があり、まして宗教を否定する人から見れば、金光教にも、「おかしいのではないかと、思われて不思議はない部分が、あるのかもしれんな」と、そう考える。
 そこで、話を一般化し、「特定の価値体系を教えて信じさせる」という行為について、悪いそれを「洗脳」と称するのに対し、良いそれを、愛育や徳育という意味も含めて、仮に「育成」と称して、考察を進めてみる。
 すなわち、どの宗教の信奉者も、自身の変化を洗脳とは思わず、育成してもらえた結果だと考えているだろう。けれども、それを一般の人たちにも認めてもらうためには、どんな要素が必要かということだ。
 サティアンで暮らす「オウム真理教」の子どもたちが、警察や報道のヘリコプターが飛来したら、建物内に逃げ込んだという話があった。「あれは毒ガスをまきに来ているのだ」と教え込まれていたからで、これはうそを信じ込ませたのだから、洗脳だろう。対して金光教の書籍には、利己的だった父親が大病して入信し、それ以来、家族が驚くほどの善人になったという、そんな実例がよく出てくる。本人には良い変化、家族には喜びを与えたのだから、これは育成の結果だと判定できる。
「常識」は社会や時代の変化につれて、いくらでも変わるものだが、それを超えて、普遍的に良しとされる価値観がある。仮にそれを「良識」と規定するなら、洗脳と育成の違いは、教えて信じさせる内容が、その時々の常識からはいささか外れていたとしても、良識の基本は押さえているという、そこに求められるのではないか。そしてそれを信じた者の言動が、周囲にも良い影響を及ぼしだしたとなれば、第三者からも育成の結果だと認めてもらえるだろう。
 食品科学に、「腐敗と発酵はどう違うか」という問題があり、答えは「一緒」なのだが、人間に害を及ぼす化学変化を腐敗、有益なそれを発酵と呼んでいるという。洗脳と育成の違いも、その例えで説明すれば納得されやすいのではないかと思ったりするのだ。
 また、もう一つ書いておけば、海外の宗教には、原理主義と称される一派を有するものがある。そして、それらは自然科学の成果の受容を拒否したり、他派他宗教の信奉者を武力で排撃したり、極端な教えを持つものが目立つ。
 しかし当方、もし「金光教原理主義」という立場があるとすれば、それに徹すれば徹するほど、人は温和で寛容になっていくはずだと考える。
 理想像ではあるが、金光教の教えをそう捉えていればこそ、子どもの頃から教会に通っていた人たちに、うらやましさを感じるわけである。

「金光新聞」2019年7月28日号掲載

投稿日時:2020/08/20 09:19:24.712 GMT+9



このページの先頭へ