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神様の計らいと受け切って【金光新聞】

なぜこの世に生まれてきた

 「なぜこの世界に生を受けたのだろう」「この世界で何をなせばよいのだろう」。誰でも一度はこのような問いの前に立つことはあるだろう。その答えの手掛かりを得た人にとって、起きてくる事柄を引き受けることは、自分を磨く稽古となっていく。

 第2次世界大戦の際、ナチスの強制収容所に収容されたビクトール・E・フランクルという精神科医がいる。その過酷な体験は著書『夜と霧』につづられている。
 フランクルは、収容所で2人の仲間から相談を受けた。彼らは、生きることに絶望し、自殺願望を持っていた。フランクルは、彼らに「未来にこの世界で、あなたを待っている何かはないでしょうか」と問い返した。すると、一人は外国に自分の帰りを待っている子どもがいた。もう一人は、科学者でシリーズの著作を完結させるという研究と執筆が待っていた。こうして2人は自殺をとどまったのだ。
 「何か」が、あなたを待っている。その「何か」は、あなたに見いだされるのを待っている。多くの人の魂を救ってきたフランクルは、「あなたがどれほど人生に絶望しても、人生があなたに絶望することは決してない」と語る。私たち人間は、自分の意思で生きているつもりだが、実は命の方から「どう生きるのか」と、常に問われ続けている存在なのだろう。

 金光教の教祖様は12歳で養子に入り、家の復興に力を注がれ、経済的に豊かになる一方で、ご家族を次々に亡くされた。その頃の心境を「神仏願いてもかなわず、いたしかたなし。残念至極と始終思い暮らし」とつづられている。家族を失う無念さと神仏に通じる道がどうしても見いだせないことを嘆かれたのだろう。後に、教祖様は神様からお知らせを頂き、自分の在り方が知らず知らずの無礼になっていたことに気付き、そのことで神様から助けて頂けるようになった。
 教祖様はある信者へ、「これほど信心するのに、なぜこういうことが出てくるのだろうかと思えば、もう信心はとまっている。…これはどこまでも私の勤めるべき役であると思って、信心をしていかなければならない。そこからおかげがいただける」と説いているが、これはご自身の歩みから出た言葉に他ならない。身の上に起こることを受け切る生き方で、おかげを頂く道を教えてくださっている。
 人間は、生まれる時に神様のご分霊を頂いて、この世に送り出された存在であり、それぞれに負い持つ勤めを背負っている。「なぜこの世に生まれてきたのか」「この世で何をなすべきか」。このようなことを、誰しも一度は考えるものだろう。その訳が、神様との関わりの中で明確になった人にとって、身の上の出来事は自分を磨いてくれる稽古台となるのだ。

 私がご用する教会に、70歳を過ぎてご縁を頂いたご婦人がいた。お結界で無言のまま、涙をはらはらと落とす日が続いた。それから、ぽつりぽつりと自らの事情を話すようになった。人には言えない苦難を抱えて生きていたのだ。この方の悲しみをそのまま神様にお届けし、神様と一緒に悲しむ、そんな時間を過ごす中、徐々に笑顔も見られるようになっていった。そんなある日、「こうして神様を感じられるようになるためには、私にとっては必要な時間であったのでしょう」と語ってくれた。
 私は、いろいろな方の話を伺う機会があるが、「なぜ、この方に今、こんなことが起こるのだろうか」という心情になることがある。しかし、神様は人の身の上に決して無駄事はなされないと、教えてくださっている通り、その出来事は神様のみ心がこもった計らいであろうと感じることが多い。信心する者として、起こってくる事に、これが自分の勤めとして、ありがたく、楽しく受け切っていく生き方を稽古したいと思っている。

久岡光治(岡山県烏城教会長)
「フラッシュナウ」金光新聞2020年10月4日号掲載

投稿日時:2020/10/26 14:54:33.311 GMT+9



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