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天地に織りなす神人物語

金光教報 「天地」11月号 巻頭言

 幼い子どもは、当たり前のことを「どうして?」と尋ねてきます。度重なると煩わしくなりますが、時に「どうして宇宙は始まったの?」と聞かれると、その虚心な響きに心の背筋が伸びる思いがします。始まりへの問いを発しながら、子どもたちは自分が存在することの不思議さに触れているのでしょう。その問いは、人類が太古から神話や文学に尋ねてきたものです。
 また人は、「どうして…」と問わずにいられない事態に出遭うことがあります。そんな時、何らかの説明で「分かる」ことはできても、「得心する」には至りません。心底から得心するには、苦難の由来と助かりへの道筋を示す物語が必要です。
 物語というと、架空の作り話のように聞こえますが、そうではありません。科学的因果関係の説明とは別の仕方で、人間の経験や人生や歴史を意味付けるものです。作家の小川洋子氏は、苦難に出遭った時、その現実を物語にすることによって、人は生きていくことができると述べています。
 また、心理学者の故河合隼雄氏によれば、物語は星座のようなものだそうです。数限りない星から幾つかが選ばれて、人や動物などの形に結ばれ、星になった理由が語られます。人もまた、数ある事柄の中から幾つかをつないで経験を意味付け、物語を書き継いで人生を送ります。
 教祖様と神様との間でも、「九死一生」の大病から全快した体験を振り返って、「どうしてこういうことができたじゃろうかと思い、氏子が助かり、神が助かることになり」という思いが抱かれました。一身の助かりが、神人の助かりに至ったことへの、驚きに満ちた喜びが表されたものです。
 この場面では、神様の見守りと導きが、前々から知らぬところで働いていたと明かされました。しかしまた、教祖様の改まりがあったからこそ、神様の救いも発動します。神様としてはできるだけのことはしたが、それだけでは成し得ぬことであり、かといって人間では到底できないことでした。それが双方にとっての「どうしてこういうことができたじゃろうか」という感嘆になりました。
 教祖様は前半生に幾度も、「どうして」と問わずにおれぬ悲しみを経験しています。「こういうことができた」に至るには、そのような数々の問い掛けがあり、それとともに、これまた数知れぬ神様の呼び掛けがありました。
 神人双方の、互いに交わし合う呼び声をとおして、願いの実現を求める働き合いが、教祖様の生涯に繰り広げられたのではないでしょうか。そして、教祖様と神様にとって、さらには世界と歴史にとって、容易に繋(つな)がり難いものが繋がり、神人の道が開かれた。そのことへの畏敬にも近い感嘆となったのでしょう。
 そしてまた、この感嘆は今日の我々も、そこに連なり、その実現へ向かえと誘います。
 教祖様は、神人の理(ことわり)、天地と人間との関係を説き教えて一生を終えられました。その真実を、信奉者一人ひとりが身に心に頂くべく、教祖様の神人物語を基に、直信先覚や初代の神人物語に重ねつつ、自身の神人物語を編み、さらに編み直して生きるということが、岩﨑内局の願いです。
 目の前の現実の中で、祈りながら、お取次を頂いて信心の稽古をしながら、神様がご一緒してくださる遙(はる)かな道を歩んでいく。
 「どうしてこういうことができたのか」。神様と教祖様の感嘆に発し、天地の間で歴史を貫いて、それぞれの感嘆へと至る物語が生まれることを願っています。

投稿日時:2020/11/04 09:48:09.733 GMT+9



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