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「神前拝詞」から見えてくる神人物語

金光教報 11月号 巻頭言

 「神前拝詞」を唱えるようになって40年近くになるが、年を重ねるごとに、その内容の味わい深さを感じている。
 近頃では、「教祖様の神人物語をお手本に、それぞれの神人物語を編む」という「教団の願い」に習い、神様と教祖様との間柄に思いを巡らせる中で、神様のみ思いに気付かせていただく時間となっている。
 とりわけ、立教神伝に至る「わが教祖金光大神いくそたび人の世の苦難に出で会いつつも 実意丁寧神信心を貫きたまい 例ためしなき神かんみかげ生まれ 神と人とのあいよかけよの生活はじまりゆきぬ」のくだりでは、42歳の大患以降の教祖様が思い起こされる。拍手を許され、手に、口に、お知らせを頂かれるようになっていかれるが、同時に神様は、次々と教祖様をお試しになられる。教祖様は、そのお試しを仰せどおりに受けられ、神様のご信頼を得ていかれる。
 そのように、神様と教祖様との縦軸が育まれ、信境が進展していく道程に、拝詞を唱えながら思いを巡らせていると、ここには、私たちがお手本と求める教祖様の神人物語が際やかに表現されているのではないか、と感じることがある。
 そして、先唱者が「尊しや」と唱え、「親神の久しき願いここに現れ 神も助かり氏子も立ち行く 取次の神依さしを金光大神畏みて受けたまい」に至る間には、教祖様が神様のお頼みをお受けになるまでの年月やお心の内を尋ね求める。すると、神依さしとまではいかぬとも、教祖様と同じように、神様は私にも願いをかけてくださっていることに気付かせられ、「どうぞ神様のみ心を分からせてください」「神様の御用にお使いください」と念じるようになった。このように、神人物語を編むことを意識しつつ信心生活を進めることで、信心はより楽しく豊かになっていくように思う。
 ところで、「尊しや」という言葉には、「私たち氏子の助かりのために、神様のお頼みをよくぞお受けくださいました」という教祖様へのお礼の心が込められていると頂くが、神様にとっては、長年にわたって探し続けた頼むに足る人間と出会えたこと、そして数々の試しをよくぞ受けてくれたとの喜びの声とも頂ける。
 さらに教祖様にとっては、明治7年(1874年)のご信心の境地をもって、それまでの来し方を振り返り、「金光大神御覚書」をお記しになられるが、その際、神様がご立教に至るまでにいくつもの段取りを組んで導いてくださり、家族の立ち行きも、村内での関わりも心配して、周到な用意をしてくださっていたことをはじめ、数々の神計らいを思い起こし、「なんと尊いことであったか」という詠嘆にも受け止められるのである。
 このお道のご立教は、神様にとっても、教祖様にとっても、私たちにとっても、「尊しや」と喜び合わずにはいられない神人物語であろう。来る11月15日には万感の思いを込めてお礼を申し上げたい。

メディア 金光教報 巻頭言 

投稿日時:2021/11/02 14:27:44.852 GMT+9



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