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「神様との対話」

金光教報 2月号 巻頭言

 新たな年を迎えるに当たり、さまざまな願いや希望を持ち、そのために改まっていこうとの思いを強くします。けれども、それがひと月も経つと、いつのまにかこれまでの生活に戻ってしまい、厳しい現実を前に、その希望が後退してしまうことにもなりがちです。そして、改まることの難しさ、願いを持ち続けることがいかに容易でないかを感じさせられます。
 思い通りにならないことは常なるものですが、だからこそ、その現実を受け止めることで、よろこびにつながっていくことが大切だと思わせられます。この道の信心は、そうしたよろこびへとつながる心のありよう、生き方を指し示してくださるものであると思います。
 そのようなご信心をうかがい知れるものが、教祖様のご事跡には幾つもあります。
 教祖様は、取次の御用に従事されるようになってからも、神様からのお試しや修行を頂かれます。ある日、教祖様は神様から、「あすは金を拾わせてやるから、西へゆけ」とのお知らせを受け、笠岡までお出かけになられました。しかし、お指図通りに出向いたのに、教祖様はお金を拾うこともできず、ただ帰ってこられたのです。
 すると、神様は「お金は落ちていたか」と尋ねられます。それに対して教祖様は、「落ちておりました」と答えられました。さらに神様が「なにほど、落ちておったか」と尋ねられると、教祖様は、「へい、いくらかわかりませぬ。わたくしは、今こん日にち、ひさしぶりに、からだを動かすことができて、血のめぐりもよくなり、それだけ丈夫にならせていただくことができました。これは、金ぜに銭かねでは得られませぬ」と答えられました。神様は「その方は、どちらからもっていっても、よい方にとる」と、神様のお差し向けに対する教祖様の受け止め方を喜ばれたとのことであります。
 教祖様の見事と思えるほどのお答えが生み出される背景には、「神様がなさることに無駄事はない」との神様への絶対的な信が感じ取れます。さらには、常日頃から神様の広大無辺なご神徳の中に生かされているとの実感が、お金よりも何よりも、今こうして歩くことができることがありがたくもったいないとの思いとなって、おのずと溢れ出たお言葉のようにも感じます。
 このように、「神様との対話」を重ねながら、教祖様は神様とのつながりをより確かなものにされました。たとえ思いどおりにならない中にあっても、日々、「神様と対話」するような思いを持って祈る中で神様のみ思いを感じ、改まりが生まれ、願いがより確かなものとなっていくのだと頂いています。

総務部長 山本正三

メディア 文字 金光教報 巻頭言 

投稿日時:2022/02/02 09:33:39.896 GMT+9



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