信心運動

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教報天地 3月号 神人あいよかけよの生活運動

 このたびの「神人(かみひと)あいよかけよの生活運動」の「願い」は、教主金光様がお示しくだされた「神人の道」のおぼしめしを頂いて、教祖様に始まるこの道の信心や助かりの筋道を、端的に表現しようと求めて掲げたものである。

 1月の信行期間中、本部広前では、「神人の道を開く」というテーマで「朝の教話」が実施された。そのなかから、佐藤光俊教務総長が、運動の意義と精神について語った内容を紹介する。

新運動の名称

 「あいよかけよ」という言葉は、立教神伝でいえば、「氏子あっての神、神あっての氏子、あいよかけよで立ち行く」という文言を縮めて表現したものだが、明治六年の御神伝の内容なども考え合わせると、ここに「神人」という言葉が入らないのでは、正しく表現したことにはならないのではないか。文法的にも、「立ち行く」という言葉にかかる形容詞か副詞句になるので、これを名詞化して捉えては焦点がぼやけることになる。

 金光教宣言にも、「神と人、人と人、人と万物」と並び記され、最初に「神と人」とあるように、あくまで基軸となるのは「神と人」の間柄であり、「あいよかけよの生活運動」の継承・展開という意味合いからも、「神人あいよかけよの生活運動」という名称にさせていただいた。

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 金光様のご内容を頂く

 昨年3月、教主金光様がご就任20年をお迎えになられた。教主選挙が実施され、全教の願いを速やかにお引き受けくだされたことに、私は心が洗われるような感を受けた。

 そうであればこそ、ここからどう教主金光様のみ思いにお応えすることができるのか。そのことを求めさせられた結果、ここまでのご奉仕のお徳とご内容を頂き、全教に本部広前と教主の意義を明らかにし、全教の基盤に培うということの大切さが確認させられた。

 さらに、それぞれが頂いたおかげを伝えるだけでなく、また、伝えられたみ教えをただ語り継いでいくだけでなく、先人たちが基づこうとされた教祖様の信心を求め、そこからおかげを頂いていくということでなければ、それぞれが思い思いの信心をすることにしかならない。教主金光様のあられようを少しでも頂いていくということが、私どもがなすべき第一のことなのである。

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 「神も助かる」とは

 「金光大神御覚書」「お知らせ事覚帳」にある大切なご神伝には、「神も助かり、氏子も立ち行く」とあり、「神が助かることになり」とのお言葉があるにもかかわらず、「神様が助かられる」ということが、これまでほとんど語られてこなかった。また、「あいよかけよ」という言葉は、単なる「助け合い」のような意味ではおっしゃっていないのに、教団全体がそう受け取りつつあるのはどういうことなのか。そこには、「人間が助かれば、神様もおのずと助かっておられるはずだ」という、こちら側の決めつけのようなものがあり、神様のご領分に人間が踏み込んで、「神様とはこういうものだ」とするような結果になっていないか。それで果たして信心になるのか、どうすることがこの道の信心になるのかという長年の問いが、私のなかで結びつきはじめた。

 確かに「人間が助かることが神も助かることである」ということに、間違いとは言えない面もある。あらためて教祖様の信心を求め直し、われわれ自身が直信たちのような生きた信心を取り戻すことが、今、迫られている。そのような問題意識ともつながって、教祖様や直信たち、各教会の初代が、それまでの生業を捨て、食べられるという目処も立たないなかで、「このありがたい道を伝えたい。人を救い助けたい」という思いで布教に出られた。そのことを求めていけば、「神も助かる」といわれる信心の本質に行き当たるのではないか。そのようなところから、冊子『取次に生きる』でも、直信・先覚たちの取次の営みからうかがえるところを拾い上げた。

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 「神人の道」とは

 昨年6月に執り行われた教主就任式時、教主金光様から、「全教の皆様と共に、教祖様ご立教のおぼしめしを体し、神と人とあいよかけよで立ち行く『神人の道』が一人ひとりの生活に現されてまいり、世界の平和と人類の助かりのお役に立たせていただきますよう、ここからのおかげをこうむってまいりたいと存じます」とのお言葉を頂いた。さかのぼって、立教150年の教会長信行会時のお言葉には、「教祖様が、神様を神様として立て仰がれ、どこまでも親神様のおぼしめしに添うて、おかげを受ける道を、身をもってお示しくださいましたところから、『神も助かり、氏子も立ち行く』この道が開かれてまいったのであります。教祖様のご信心、そこにかけられた親神様のみ思いに、あらためて思いをいたし、いよいよ、神と人とあいよかけよで立ち行く『神人の道』が、一人ひとりの生活に現されてまいりますよう、共々に心をこめてお役に立たせていただきたいと願っております」とある。

 さらに立教150年のお年柄には、「あらためて、ご立教にかけられた親神様のおぼしめしと、これを謹んで受けられた教祖様のご信心に思いをいたし、いよいよ神と人とあいよかけよで立ち行く『神人の道』が、一人ひとりの生活に現されてまいりますよう、共々に心を込めてお役に立たせていただきたいと願っております」というお言葉があり、「神と人とがあいよかけよで立ち行く」という言葉を「神人の道」と分かりやすく表現してくださっている。これが本教教義の中心であると、あらためて思わせていただく。

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 神様へのお礼

 これまでの信心の実態を吟味し、教団・教会のあり方のうえに、また、教会長・教師のご用姿勢のうえに培われていくことを願いとして、「あなたも、神様の仰せどおり真一心に信心しておかげを受け、人を助けて神にならせてもらうがよい」とのみ教えや、「信心しておかげを受けて、難儀な人を助ける身にならせてもらうがよい。神の心になって、受けたおかげを人に話して真の道を伝えるのが、神へのお礼である。それが神のお喜びとなる。信心するといっても、これまではみな神を使うばかりで、神に使われることを知らない。天地金乃神様は人を使いとなさる。神に使われることを楽しみに信心せよ」とのご理解にもあるように、自分が都合よくいくために神様を利用するという、「これまではみな神を使うばかり」の信心から、「神様へのお礼」として、受けたおかげを「神心」となって人に伝えていく。そういう稽古を積み重ね、お徳を積むことをとおして、私ども一人ひとりが神様にお使いいただける氏子にお育てを頂くことが、今、願われているのである。


 来年は、教祖130年のお年柄をお迎えする。教祖様が亡くなられて130回目のお年柄といえば、ただの通過点に過ぎないことにもなるが、10年を節として教祖様のご信心に立ち返る意欲を、全教でより強く持たせていただきたいとの願いを込めて、教祖130年祭を迎えさせていただきたい。その前年である本年は、あらためて記念祭の意義を頂く内容づくりに力を注ぎ、信奉者一人ひとりが確かな信心のあり方を求めさせていただきたい。

(2012/03)

   



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