信心運動

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教報天地 10月号 神人あいよかけよの生活運動

「神のおかげにめざめ」を焦点に

 本年8月28、29日に開催された「『運動』に関する会議」で、江種登喜雄師(北海道・もいわ)が行った発題の内容を抜粋して紹介する。

「神のおかげにめざめ」を焦点に
 このたびの「神人あいよかけよの生活運動」の「願い」について、まず一行目の「御取次を願い 頂き」という文言に、信心の基本が確認されていると思います。そして、「神のおかげにめざめ」という二行目に、生かされて生きている私たちであるという自覚が促されているように思います。
 前の「あいよかけよの生活運動」は、どちらかといえば人と人の関わりに重心が置かれたものでしたが、このたびの「運動」は、お互いを神から等しく願いをかけられた氏子として、神と人との関わりを基にしての人と人との関わりが示され、全体的に前の「運動」の中身をより丁寧に表していると思っています。
 この「運動」を進めるなかで、自分の課題として、「御取次」を「願い 頂く」ということが、今、どれほど自分の手元のところでできているのかということがあります。
 教会でのお取次でも、信者さんが肝心要のところをお届けされず、形だけのお届けになってしまうことがあります。それは、こちらの姿勢や教導のあり方に問題があるのも事実ですし、私自身の改まりの問題だとも思います。ただ、それを鑑みても、もう一つ超えなければならないものがあるように思われてなりません。
 それは、「御取次を願い 頂く」という前に、「神様」をどう実感しているのか。言い換えれば、「神様の存在」をどれほど本気で必要としているのかということです。
 私が学院生であった時、当時の学院長だった内田守昌師が「本教概説」という授業のなかで、次のようにおっしゃいました。
 「神様がおられるかどうかということに終始するのではなく、自分にとって神様におっていただきたいと心底思えるかどうか。自分にとって神様が必要であるかどうかということが、信心には大切なことである」
 「御取次を願い 頂く」という時、このような「神様の実感、神様への思い」の有無がその基盤となり、そして、「願い」の条文にあるように、「神のおかげにめざめ」という経験の有無が、その実感、思いの源となってきます。
 「痛いのが治ったのでありがたいのではない。いつもまめながありがたいのぞ」というみ教えは、痛くて痛くて長い間難儀をしたという経験がある人には、自ずと実感できるみ教えとなりえますが、そのような経験があまりない人には、なかなか心に響きにくいものであり、理解できても頭でしか分からないということになりがちではないでしょうか。 

次男の病をとおして
 一年前、当時高校に通っていた次男が、朝起きて体調の不調を訴えました。「目の前がチカチカ光る」と言うのですが、「どうせゲームでもやりすぎたのだろう」と、私は気にも止めませんでした。しかし、だんだんと様子が変わり、激痛を訴えるようになりました。そして、あまりの痛さに胃の中の物を戻し、「右目の奥が痛い」ともだえ苦しみ出したのです。これは尋常ではないと思い、すぐに救急車を呼びました。
 妻が付き添い、私はご神前でご祈念をしていたのですが、情けないことに集中できません。今にして思えば、私は一人で神様に願い、ご祈念していると勘違いしていました。金光様をはじめ、親先生、父母の祈りを頂いている私たちであるということが抜け落ち、不安になり、祈ることに一心になれないのだと反省させられました。
 やがて妻から電話があり、「どうも群発頭痛ではないか」ということでした。偏頭痛の一種で、三大激痛の一つともいわれ、右目の奥をキリで刺されるような痛みが二週間から二か月ほど続くこともあるそうです。いったん治まっても、半年後や三年後に再発することもあるようで、根本的な原因は分からないようです。
 症状には前兆があり、あらかじめ痛み止めを飲むという対策がありますが、それが間に合わないこともあり、再発することもありました。それからは、症状に関わる神経を緩慢にさせる薬を食後に飲むという生活が始まりました。「チーズとチョコレートは刺激物となるので摂りすぎないように」と医師から指示がありましたが、それは次男の大好物でした。

実感をもって伝える
 その次男がある日、「なんで俺ばっかり、こんな目に遭うのか」とぼやきました。中学校の柔道部時代には、膝を痛めて二回も半月板の手術をしました。小児ぜんそくがあり、敏感肌で水ぶくれやあざができる体質でもあります。そして、今回の病です。
 挙げ句の果て、「俺には何か憑いている」と言い出しました。私はその時、ふと、「今、この子は、自分の力ではどうにもならない何かを感じているのではないか」と思いました。
 本人にとって厄介で得体の知れないものながら、実際は自分の力ではどうすることもできない。今はつらいとしか思えなくても、やがてはそのなかにある、自分を守り支えようとする働きを感じていくことにつながるかもしれない。そのための一つのハードルの前に、次男はいるのかもしれないと思えてきたのです。そして、そのハードルを超えるのは、理屈や私の説得ではなく、本人の実感が必要であり、このことをとおして、やがては神様を感じ、生かされて生きている自分なのだと気づいていく大切な布石になるかもしれないと思えたのです。
 以前に増して、家を出る時や外から帰った時、寝る前にも、必ずご神前に向かう次男の姿があります。症状が出た時の耐えがたい痛みの一方で、普通の人と変わらない生活ができている自分を顧みて、日々、何事もなく過ごせるということが「当たり前でない」という気づきを、いろいろな出来事をとおして分からせていただいているのかと思わされています。
 信心は理屈ではない、実感が大切であると言われる時、日々の生活のなかで、「願い」にある「神のおかげにめざめ」ということが、どのように実感をともなって理解されるのか、伝えることができるのかを思います。それこそが取次者としての「守り守りの力」かもしれませんが、言葉だけに終わらせては伝わらないようにも思われるのです。
 「痛いのが治ったのでありがたいのではない。いつもまめながありがたいのぞ」
 その中身を実感をもって伝えることの難しさを思う時、それにどう取り組んでいくのかが、私の課題となっています。その積み重ねの必要性と具体的な中身について、ここから求めていきたいと願っています。

(2013/10)

   



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