神人あいよかけよの生活運動

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金光教報「天地」12月号 神人あいよかけよの生活運動

「あいよかけよ」で頂くもの

 北海道亀田教会の教会誌に紹介された福本典子師(徳島・日和佐)の教話の一部を紹介いたします。


問題になった親子の関係
 私の実家は農家で、家から3キロほどのところに広島県芸備教会がありました。私は信心4代目で、物心がついた頃には父はお道の教師となっていました。祖母や両親が芸備教会に参拝し、私も少年少女会や青年会でお育てを頂き、短大は大叔母が嫁いだ岡山県笠岡教会から通わせていただきました。
 大学二年の時、大叔母から「卒業したら金光教学院に入って、おかげを頂きなさい」と言われ、父も喜んでくれて、昭和45年、金光教学院に入学させていただきました。教師のご任命を頂いた翌年、日和佐教会に嫁ぎましたが、教師とは名ばかりで、まだ何も信心は分かっていませんでした。結婚して、問題になったことは親子の関係でした。義父になる初代教会長は、信者さんには優しいのですが、自分にも家族にも、信心にはとても厳しい人でした。
 結婚する時に教会を増築し、私たち夫婦は新築の部屋で寝起きしていましたが、いつも「窮屈な教会から出たい」と思っていました。当時、夫は病院に勤めていましたので、教会を出ても生活は何とかなったのです。そのようななか、とうとう昭和50年10月、義父と夫が些細(ささい)なことから口論となり、「おまえたちは出て行け」という義父の言葉で、私たちは教会を出ることになりました。

「一生、逃げとおすのか」
 その時、長女は1歳半、私は妊娠8か月で、まずは実家に帰ってお産をしようと思いました。ところが、一部始終を聞いた父が、夫に次のように申しました。
 「正徳君、親が難しいから家を出ると言うが、職場で嫌な問題ができたらまた逃げるのか。一生、逃げとおすのか。自分に都合のよい楽な道を選ぶのではなく、険しく難しい道を選んで生きる力を頂いてくれ。それが神様のお徳を頂くことになる。君のお父さんも、大変なところを受けての今日ではないのか。私も、教会でお取次を頂いて、その時その時をしのがせていただいた。家族が健康であること、住む家があること、仕事を頂いていること、おかげを頂いていることにお礼を申し、問題から逃げず、問題を受ける稽古をしてくれ。明朝、教会に帰りなさい」
 翌日、私たちは仕方なく教会に戻りました。それでもお結界には義父が座っているので、親子の問題をお取次いただくことはできません。「教会に嫁がなければよかった。信者さんなら、教会に参拝してお取次を頂けるのに」と思い、たまらなくなると、実家の両親に電話で悩みを聞いてもらい、手続き教会の先生に聞いていただいたこともありました。そのようななかでも、私は毎日、お広前で、「どうぞ、生きる道を間違いませんよう、本当のことを分からせてください」と、一生懸命ご祈念させていただきました。
 「私が辛抱することで家族が仲よくなれるのなら」という思いで、2人の子育てをしながら一生懸命努めるなかで、次第に体が痩(や)せていきました。昭和54年4月、健康診断を受けると肺結核が見つかり、即入院となりました。
 入院の前日、義父が義母や私たち家族を集めて、お結界から「このたびのことを家族で、『天地お書附』の精神で受けさせていただこう。典子さんは十分に養生をして来なさい」と言ってくださいました。その時、長女は5歳、長男は3歳で、子どもを残しての入院に不安でいっぱいでした。
 しかし、不思議に入院してからは、「病気が早く見つかってよかった。結婚したからこそ、夫や子どもたちがいて、それが力になる。ゆっくり休んで、これまでのことを振り返ることができ、ありがたい」という思いになり、神様のお繰り合わせやお計らいを少しずつ分からせていただき、お礼を申しながら治療を受けることができました。
 半年後、退院することができました。それまで苦しんできた親子の問題も、病気をきっかけに、家族と健康のありがたさを分からせていただき、「『難はみかげ』とはこういうことか。お繰り合わせを頂くとはこういうことか。神様は、思い以上、願い以上のおかげを頂かせてくださった」と、私なりにお育てを頂いたように思いました。
 その後、義父とは10年、義母とは19年、一緒に生活させていただきましたが、2人とも入院されることなく、教会でお国替えされました。

「お礼を申したことがあるか」
 実家の父はいつも、「人間は、10のうち8つよいことがあっても、2つ悪いことがあると、全部悪いように思う。悪いこと、つらいことを耐えるのでなく、よいこと、うれしいことを喜べば、すべてがおかげになってくる。毎日の生活のなかで、ありがたいことを見つけ、喜ぶ稽古をすること。針ほどのことを棒ほどに喜ぶ者は、棒ほどのおかげを受ける」と言っていました。それは父自身が取り組んでいたことでした。私は信心のある家庭で成長させていただいたことで、知らず知らずにおかげを頂いている自分であることも分からせていただきました。
 義父は、自分が入信した時のことをよく話してくれました。義父も当時は死の病といわれた肺結核を患い、あらゆる治療や養生を重ね、神仏にも参りましたが、次第に悪化し、ある人に勧められて、愛媛県西条教会に参拝しました。その時、初代教会長・高橋音五郎先生が次のように言われたそうです。
 「あんたは今日まで3年以上、できる限りの養生をしてこられたということだが、自分の力で病気がよくなるものなら、もうとっくによくなっておらねばならんはずだ。それでも悪いということは、わが身のこともわが自由にならないことだけは明らかでしょう。人間は、自分で生まれてきたものでもないし、自分で生きてきたのでもない。天地の偉大なるお恵み、お働きのなかで、生かしていただいて生きておる。そのお働きに、あなたは一度でもお礼を申したことがありますか。ご恩を知らず、自分の力だけでどうにかしようと焦り、苦しめば苦しむほど、重荷となり苦痛となって、かえってよくない経過をたどることになった。天地の親神様のお恵み、お働きによって、生かされて生きておることに目覚め、感謝し、おすがりして、そのお力を頂いて、『体が弱くては何のお役にも立ちませんので、どうぞ全快のおかげをこうむらせていただき、ご用させてください。私に与えられた使命を全うさせてください』と、生死を神様に任せきって、一心に神様におすがりさせていただきなさい。おかげを受けますよ」
 それまで信心など気休めぐらいに思っていた義父は、「信心とは、人間の本当の姿を知り、真実のあり方を知ることによって、幸せな生活を頂くにはどうしたらよいかを分からせていただくことだ」と気づきました。その後、三年間苦しみぬいた病は、1年足らずで薄紙をはぐように全快のおかげを頂きました。
 義父は、「私のような者でも、改まって信心させていただけば、助かる道がある。どうぞ、神様のご用にお使いください。私のように苦しんでいる者が助かるご用に使ってください」という願いで、お道の教師になりました。そして、昭和12年8月2日、知る人もいない日和佐の地に布教に来たのです。義父はこの話をとおして、私に神様と人間の関係を教えてくださいました。

「先のことは誰にも分からん」
 自分の知恵や力だけで生きていけるのなら、難儀をする人はいません。人間の力だけで幸せに生きていけないのです。しかし、神様のお力だけでも人間を幸せにはできません。そこには、神様のお恵みやお働きを受けて、生かされて生きていることを分からせていただき、お礼を申していく人間としての生き方が必要です。私たちの助かりをひたすら願ってくださる親神様を信じ、神の氏子として成すべきことに努める。それが「氏子あっての神、神あっての氏子、あいよかけよで立ち行く」といわれるお道の信心につながっていくのです。
 お結界の先生は番頭さんと同じです。責任は、店の主人が取ってくれます。同じように、お結界の先生が間違っても、神様が責任を取って、おかげをくださいます。先輩の先生の言葉に、「お取次を頂いて起きてくることは、よいこと悪いこと、みなよい。お取次を頂かずして起きてくることは、よいこと悪いこと、みな悪い」とあります。
 昭和57年8月25日夜、いつもと同じように月例祭が仕えられました。祭典後の義父の教話はいつも長いのに、その日は30分足らずで終わりました。信者さんが帰られた後、私に、「明日、私に代わってご本部に参拝し、金光様にお取次を頂いてきてください」と言われました。続けて、「77歳の今日まで神様のご用をさせていただきましたが、体が弱くなり、ご用ができないようになりました。まだご用ができるものでしたら、どうぞ一日も早く全快のおかげを頂きますように。もうご用ができないものでしたら、一日も早くお国替えできますように、お取次を頂いてきてください」と言われました。その言葉をメモにして、翌日、ご本部のお結界で四代金光様にお取次を頂きました。
 四代金光様は、「これから先のことは誰にも分からん。神様しかご存知ない。今日まで77年間、頂いたおかげのお礼を申させていただきましょう。後は神様がよいようにしてくださいます」とおっしゃいました。教会に帰って義父に伝えると、それからは「早くお国替えしたい」と一度も申しませんでした。そして、私のなかで、四代金光様のお言葉と、義父から聞いた高橋音五郎先生の言葉がつながったように感じました。

「おかげは神様がくださる」
 教会では、定時のご祈念、教話、お取次のご用など、すべて義父がしていましたが、昭和57年8月26日からお結界に座ることがなくなりました。それからは私たちが、月例祭、霊祭、生神金光大神大祭、越年祭、元日祭と、義父から一つ一つ教えられて、お仕えさせていただきました。
 最期は自分の葬式のことまで教えて、昭和58年1月10日、「今日まで血の涙の出るようななかも通らせていただいた。私のような至らぬ者が、ここまでありがたくなれるとは思わなかった。信心するなら、本気でおすがりさせてもらえ。必ず神様が見繕ってくださる」と言って、お国替えしました。四代金光様が「後は神様がよいようにしてくださる」と言われたことはこういうことであったかと、あらためてお取次を頂くことの大切さを分からせていただきました。
 義父が養生している時、「典子さん、お世話になります」と言われるので、「お世話をしてもらうより、お世話させてもらうほうがずっとありがたいです」と言いました。子どもを残して半年間入院したことで、人のお世話になることのつらさを分からせていただいたからです。「教会の後を頼みますよ」と言われ、「お父さん、守ってください」と申しますと、「私は今まで信者さんに、おかげは先生からもらうものではなく、神様がくださるものですと教導してきました。熱心にお取次させていただき、熱心にご祈念してください。必ずおかげを頂きます」と言ってくださいました。
 義父はよく、「人は、親切にされるありがたさは知っていても、人に親切をさせてもらうありがたさを知っている人は少ない。神様からおかげを頂くありがたさは知っていても、神様に奉仕させてもらうありがたさを知っている人は少ない。本当のありがたさは、神様に奉仕させていただくこと」と言っていました。お取次のご用をさせていただくうえで、義父から教えられた一つ一つが役立っています。信者さんのことも、家族のことも、それぞれ立ち行くおかげを頂いてきました。
 「氏子あっての神、神あっての氏子、あいよかけよで立ち行く」お道の信心です。どうぞ、今日までおかげ頂いてきたことに御礼申し上げ、いっそうのおかげを頂きましょう。生神金光大神様、天地金乃神様がお喜びくださることは、難儀されている人に信心を伝え、おかげを頂いてもらうことです。共々に、「人一人助ければ、一人の神」にならせていただきましょう。
(2014/12)


   



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