神人あいよかけよの生活運動

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金光教報『天地』 7月号 神人あいよかけよの生活運動


神様と共にある生き方を

 本部広前月例祭祭典後の教話で、近藤金雄師(兵庫・篠山)が話された内容を抜粋して紹介いたします。


 前教会長だった父が亡くなったのは、平成17年9月のことで、今年は10年祭を仕えることになります。父は常在してご用をする教師がいなかった篠山教会に赴任して、ちょうど50年にわたってご用にお使い頂きました。
 私が最近つくづく思うことは、私がお話しさせていただく内容は、結局のところ、父が言葉や行動をもって教えてくれたことを、言葉を変えて繰り返しているだけではないかということです。父の信心をとおして、教祖様のご信心、すなわち教祖様ご立教以来、156年にわたる本教の歩みのなかに伝えられてきた、この道の信心の大切なところを頂いて参りたいと願わせてもらっています。そこで今日は、教会で発行してきた教会報に掲載された父の話を紹介させていただきます。

父が残した信心から
 み教えに「信心しておかげを受けてくれよ」と教えられていますが、その「信心」とは、どういう信心をすることを願われているのでしょうか。『金光教教典』に収録されています「金光大神御覚書」を拝読しますと、安政5年12月のところに「私養父親子、月ならびに病死いたし、私子三人、年忌年には死に。牛が七月十六日より虫気、医師、鍼はり、服薬いたし、十八日死に。月日変わらず二年に牛死に。医師にかけ治療いたし、神々願い、祈念祈念におろかもなし。神仏願いてもかなわず、いたしかたなし。残念至極と始終思い暮らし」とあり、その次に「実意丁寧神信心のゆえ夫婦は取らん。知ってすれば主から取り、知らずにすれば、牛馬七匹、七墓築かする、というが此方(このかた)のこと、とお知らせなされ。恐れ入りてご信心仕り、家内一同安心の御礼申しあげ」とあります。
 「祈念祈念におろかもなし」ということは、教祖様はいいかげんな神様への向かい方をされていたのではなく、本気になって一心に神様へ向かっておられたのです。それほど熱心に信心しておられたのに、その時は「神仏願いてもかなわず。残念至極と始終思い暮らし」とあるように、願ったようなおかげは頂けなかったのです。そこから神の仰せどおり、何かによらず、背かずという信心になられました。そのような信心になられたところから、神様がおかげを頂かせてくださり「家内一同安心の御礼申しあげ」とお礼を申しておられるのです。その信心を「実意丁寧神信心」と教えておられます。
 ご理解に「信心とは、常平生、神の心のようになって信心するのが信心じゃ」とか、「信心せよ。信心とは、わが心が神に向かうのを信心というのじゃ」とみ教えくださっていますが、神様に心を向けるということ、さらには神様の言われることを聞き、神様を立てるということ、自分を神様に合わせていくことを教えておられると思うのです。
 人間の親神であり、人間の苦しみ、悲しみ、そして喜びを共感してくださる天地金乃神様は、常に私たちに助かる生き方を教えてくださっています。人の口、あるいは起きてくる事柄をとおして、助かる道を教えてくださっています。その教えてくださる神様の声を聞いて信心することが大切です。とはいえ、神様の声はなかなか聞くことはできないかもしれません。ですが、神様の声として聞くということはできるでしょう。人の話すこと、あるいは起こってくる事柄を、神様の声として聞かせていただくということです。神様の声は聞けなくとも、神様の声として聞かせていただいて、そのとおりにしていけば神様がお働きを現わしてくださるのです。

神様に語りかけていく
 それは具体的にどうすることでしょうか。例えば、交差点で信号が赤になれば、自動車を止めて青になるまで待ちます。その時に「おまえも早く行きたいだろうが、今は向こうの自動車が急いでいるので、優先させてやってくれ」と神様がおっしゃっているという思い方をします。赤信号でもしばらく待てば、青になって行けるようになるのですから、別にそのようなことを考えなくてもよいのですが、神様がそのように私に頼んでおられるという思い方をするのです。
 そのような思い方をしていけば、当然、イライラした気持ちにはならないでしょう。あるいは、このまま走って行けば、子どもが急に飛び出してくるとか、トラックに衝突しそうになるとか、危険なことに出遭うから、神様が「このまま走らずにしばらく待っておれ」とおっしゃってくださっているという思い方をします。「それでは神様のおっしゃるように待たせていただきます」と、心の中で神様に語りかけて、青信号になるまで待つということです。
 信号を待つということでは、別に、なんら違ったことをするわけではありません。また、そういう思い方をしたからといって、表面的にはどうということもないのですが、神様が頼んでおられるという思い方をし、そして神様の仰せのようにさせていただきますと語り掛ける稽古をしていくのです。ご神前で神様にお願いしたり、お礼申したりする時だけでなく、どんな時にでも神様に語り掛け、神様の願いを聞かせていただいて、そのとおりにしていくように努めます。そのような思い方をしている時には、わが心が神に向かっているのです。常に神様に語り掛けながらの生活をしていると、「このことを神がしてくれと頼んでいると受け取ってくれるのか。そしてその神の願いを聞いて行ってくれるのか。そこまでに神の願いを聞き、神を立ててくれるのか」とお喜びくださるのです。そして神様が反応を現わしてくださいます。

生まれてくる気づき
 ある信者さんが勤めている職場の同僚に若い女性がいます。その女性は週に数回、職場の勤めが終わってから、食堂のアルバイトもしています。あるお客さんとの言葉のやりとりでトラブルがあって、それからというもの、全てのお客さんが怖くてたまらなくなり、「今日もアルバイトの日だけれども、行きたくない。どうしたらいいか」という相談を受けました。
 その信者さんは、「どのように話をさせてもらったら彼女の心が助かり、頑張ろうという気持ちになってもらえるでしょうか」と神様に問いかけていたら、あることに気づかせてもらいました。そして、自分の娘が以前勤めていた職場で人間関係に悩んでいた時、「自分に都合の良いことや、自分が気持ち良くなることばかりが起こっていたら、人間は成長しないよ。嫌なことを仕向けられた時に、自分を抑えて辛抱し、それを受けていくことがいる。つまり、負ける接し方をしていくことがいる。その負ける稽古をさせてもらえてよかったね。人間は使ったところが強くなり、使わないところはどんどん弱くなる。自分の耳に気持ちの良いことばかり聞いていたら、それが当り前になってしまう。そうなると、自分の思いと違うことになったら、辛い、悲しい、どうしていいか分からないということになってしまう。負ける稽古がしっかりできていたら、自分の思いと違ったことが起きて来ても、逃げたりしないで、その事柄に向き合える力がつくのだから、一回でも多く稽古ができて、本当によかったと思うよ。あなたの後ろには、お父さんもお母さんも、そして教会の先生も神様もついているんだから、何にも心配することなんかない。絶対に無駄なことにはならないから」と言って聞かせたことをその女性に話しました。そして、「あなたもお客さんに言われた時に、辛抱して謝ることができたんだから、たいしたことや。おめでとうと言ってあげたいよ」と伝えました。
 彼女はその言葉にうなずきながらも、その日のアルバイトにはよほど行きたくなかったのか、「今日だけ休んだらいかんやろうか」と言いました。そこで「それは休んだらいかんよ。行ってしっかり稽古をさせてもらっておいで。せっかく一つ頑張れたのに、今日休んだら損よ」と信者さんは言ったのでした。職場でのその日の仕事を終えての帰り際に、彼女は「やっぱり今日、稽古に行ってくるわ」と言ってくれたのです。信者さんは「そんな気持ちになってくれてありがとう。私も応援しているからね」と言って彼女と別れました。応えてくださる神様 それでもその信者さんは、「あんな言い方でよかったのだろうか。もっといい言葉があったのではないか」と思い、教会の先生に聞いていただこうと自転車で帰路に就きました。ところが、気がつくと教会のある通りではなく、別の通りを通っていました。「教会に参拝しようと思っていたのに、どうしてこの道を通ったのだろうか」と思いながらふと見ると、スーパーの前で誰かがにこにこしながら手を振っています。それは彼女でした。それに応えて手を振ると、彼女は頭をぴょこんと下げて、スーパーの中に入って行きました。その時に「神様があれでよかったのだとおっしゃってくださったに違いない」と信者さんには思えたのでした。教会に参拝しようと思っていたにもかかわらず、別の道を通るようにされ、彼女をとおして神様からの答えをくださったと思うと、この上ないうれしさが込み上げてきたということでした。
 神様は「よくそのようにしてくれた」とお喜びくださり、褒めてくださったのだと思えるように、私たちが喜べるようなありがたいことを現わしてくださいます。そして、私たちの心がさらに神様の方に向くようにと、神様の手応えとして感じさせてくださるのです。また、神様を立てるあり方を常にしていると、自分の心も、次第に神様に向かう気持ちが変わってきて、今まではおかげと思えないような事柄のなかにも、神様が現わしてくださっているおかげが見えるようになってくるのです。
 お願いしたり、お礼申したりする時はもちろんですが、別段、信心と言わなくてもよい、何でもないような時にでも神様に心を向けていく。具体的には神様に語り掛けながら物事を進めていくことが、神様の仰せられることを聞き、神様を立てるということになっていくということです。そういう信心の進め方が、私たちがおかげを頂く信心だと言えるのです。このように父は話していました。

神様が喜ばれる信心へ
 「金光大神御覚書」を見ると、教祖様のご事跡に、安政5年正月朔日(ついたち)に弟、繁右衛門さんの亀山広前へお参りされ、その時に「戌(いぬ)の年は、神の言うとおりしてくれ、そのうえに神と用いてくれ、神も喜び」と、こういう神様のお言葉が下がります。「神と用いてくれ」というのは、「神と立ててくれ」ということであるという注釈が『金光教教典』に載っています。神様を立てる、神様の言われるとおりにさせていただくということを、神様がお喜びくださるのです。そこで、神様に語りかける信心、神様がこのようにおっしゃっていると頂いて、ではそのようにさせていただきますと実践していく信心が大切になります。
 もちろん、そのようなことができていくためには、普段から教会に参拝して、御取次を願い頂いて、あの時の受け取り方でよかったのかと、神様の願いを分からせていただく稽古をしていくことは大切ですし、教典や教祖伝をはじめとするお道の本を読ませていただくなどして、み教えを頂くことに努めることがあってのことです。
 「神人あいよかけよの生活運動」が発足する以前のこと、前教務総長の佐藤光俊先生はよく、「神が助かる、神の喜びであると仰せになる氏子の信心」ということを言われていました。そして「そのような信心は、自覚的にではなくても、本教の信心の大切な内容として常に求められてきたものである」とも言われていました。
 この「神人あいよかけよの生活運動」の「願い」に沿って、それぞれがこれまでに頂いてきた信心を整理し、そのなかから「神人の道」、すなわち、「神が助かる、神の喜びであると仰せになる氏子の信心」を求めていくことが大切だと思わせていただきます。

(2015/7)

   



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