神人あいよかけよの生活運動

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金光教報『天地』 3月号 神人あいよかけよの生活運動


私の夫婦道

 「神人あいよかけよの生活運動」道南地区集会で、若林憲章氏(北海道・亀田・信徒)が話された内容を抜粋して紹介いたします。


初代の教えを支えに
 私は定年退職して4年になります。今は子どもたちも独立して、夫婦2人の生活です。妻は、近くに住む2人の孫が下校するとわが家に預かり、面倒を見ながら専業主婦を続けています。一方、私は地域のボランティア活動と教会行事のない日には、仕事をしています。
 私と妻とは職場結婚です。結婚生活は、「この人にお道の信心を伝え、仕合(しあ)わせな一生を過ごしてもらいたい。そのために一緒に暮らそう」という願いでスタートしました。しかし、願いの実践方法を取り違えて進めてきた「私の夫婦道」はすぐに挫折し、相手を責めるという、本教の信心とはまったく異質のものになっていたように思えるのです。
 昭和51年の結婚の折、亀田教会初代教会長・高村光正先生から、「将来、親との同居を考えるのであれば、結婚当初から一緒に暮らすことを勧めます。その方が、みんなが仕合せになれます」とみ教えいただきました。さらに、結婚式の祝辞では、私には「師匠を大切にしなさい」、妻には「お義母さんに心ゆくまで甘えてください」とのはなむけの言葉を賜りました。
 師匠とは、私が神様から与えられた職場である眼科病院の所属長である院長のことです。そこから、師匠の出身大学の眼科学教室で研修をさせてもらったり、閑静な住宅地の広い持ち家を社宅として33年間貸していただきました。そのおかげで両親との同居もかない、父を送り、子育ても終え、高齢期の母の居宅介護も成就し、みとらせてもらうことができました。そのうえ、近年では広い庭で孫たちと野菜作りをしたり、鶏やヒヨコと遊ぶこともできました。
 初代先生の教説は、「師ありてわれあり 師にむくゆるをねがひとす」です。初代先生の師とは、函館教会初代教会長・矢代幸次郎先生ですが、その師に対する厚い思いを、代が替わった二代、三代に対しても変わることなく持ち続けられ、道の親として立て仰がれたのでした。それを初代高村先生は、「二代、三代のなかに初代を頂く」という独特の表現をしておられました。さらに、「初代矢代先生あったればこそ、天地の親神様も金光様もそのお働きをお現し下さった」ともおっしゃっています。この生涯にわたる信条によって、次元の高い仕合せを得られたことをご教示下さったのでした。
 結婚した時、私が26歳、妻が23歳ですから、何も分からないなかで両親との生活がスタートしました。その時は、父が勤めていた会社の社宅に住まわせてもらいました。初代先生から「ご両親も元気なのだから、食事ぐらい別にするのもよいですよ」とおっしゃっていただいて、若い妻は張り切って食事を作ってくれました。しかし、「お義母さんに甘えて下さい」と、はなむけの言葉を頂いた妻は、そう簡単に甘えることもできず、妻なりに苦労していたようで、たびたび寝込んだものでした。私自身も若く、母と妻との間を上手に取り持つことが出来ず、息子と夫の役柄をこなしきれずに、悩んだものでした。そんな問題を信心によって解決したいと願い、3人そろって教会に参り、初代先生にお取次を頂きました。初代先生からは「別々に来なさい」と諭されることもありましたが、それは教会が、一人ひとりの氏子の願いを神様に、また神様のおぼしめしを一人ひとりの氏子に取次ぐ場だからでしょう。私はそのような未熟な信心だったのです。
 時は流れ、40年の歳月が過ぎた四年前の春、母は87歳でお国替えの大みかげをこうむらせていただきました。その折、私よりも妻の名前を呼ぶほど、年老いた母は妻に対して絶対の信頼を寄せるようになっていたのでした。

家庭で信心の稽古を
 還暦を機に、クラス会などでたびたび学友と懐かしい時間を共有しています。われわれの年齢では、既に15パーセントの方が物故者となっています。中には奥様が亡くなられている方もありますから、自身の命があり、妻が存在することは、お道の信心から考えると、ありがたい限りです。
 今は「育メン」という言葉もありますが、私たちの世代は、男は子育てには関わらないのが一般的でした。台所に立ったこともなく、子どものオムツを触ったこともありません。休みの日に、たまに子どもと遊んだり、ちょっと勉強を教えるぐらいでした。このような生き方に対し、還暦記念のクラス会で、長年教育者として仕事をしてきた学友から、「それは、家庭生活を放棄して職場に逃げていただけで、最も楽な生き方なんだよ」と言われました。
 4年前に退職した仕事は医療職でした。私は、やりたい放題に、仕事を中心にエネルギーを注ぎ、忙しく走り回っていました。私の師匠は、周囲から「スーパーマンだね」と言われるような、エネルギッシュな生き方を生涯貫いた方でしたから、そういう生き方を美学のように信じていたのです。しかし、妻にとっては、大変な苦労であったようです。
 4年前、母の50日祭を終えたある日、妻から「私は全然仕合せではありません。あなたの犠牲になってきた私の人生返してよ」と言われたのです。その言葉に私は、「慰謝料を渡すから、家を出て行って下さい」と申しました。
 その時、ふと壁に目を向けると、そこには函館東部教会の布教60年記念祭の折に頂いたおかげ日暦がありました。4日のところには、「家の内は仲のよいのが神楽 言い事は家のしけ 船乗りはしけといえば命取りであろう」と書かれてありました。さらに、17日には「女は神に近い 信心は女からじゃ」、27日には「人を不足に思わず、物事に不自由を行とし、家業を働き、身分相応を過ごさぬよう倹約をし、だれにも言わずに行えば、これ心行なり」とのみ教えが目に入り、申し訳ない気持ちになりました。
 今でもそれらのみ教えを心で唱えていますが、たびたび妻とけんかをしています。孫からは「じいちゃんばあちゃん仲が悪いね」と言われる始末です。どう冷静に考えても、妻の方が悪いと思えるようなことでも、妻と娘と3人の孫が、「じいちゃんが変だ。じいちゃんがおかしい」と連発します。この孫の言葉に、「ああ、そうだなあ。妻との間を、自分が正しいと思っていたのは間違いだった。これが相手を責める心となっていたのだなあ」とハッとさせられます。これでは妻から「私は全然仕合せではありません」と言われても当然です。妻がいてくれること、教会に参ってくれていること、教会のご用をさせてもらっていること。当たり前だと思っていたそれらのことが、どれほどありがたいことかと気付かせていただきました。
 二代教会長・高村惠美子先生は、「あなた方が、仲良く生活することをいつもお願いしていますよ」とおっしゃって下さいます。さらに、娘たちと同世代の高村みち枝先生からは、「夫婦生活では、何事でも気付いた方がやらせていただけばよいと思います」とおっしゃっていただき、お道の信心に基づいた助かりへの道を、ご教示いただいています。
 「神人あいよかけよの生活運動」も5年目を迎え、北海道教区では周知・徹底の段階を終えて、本年は実践に力を入れると聞いています。信心の実践で最も難しいのは家庭生活ではないでしょうか。夫婦は他人であり、育った環境も違い、遠慮のない間柄であり、それぞれの常識も違います。仕事や子育て、そして親の介護などを終えての夫婦2人の信心生活を、相手の言葉に耳を傾け、「そうだね」「そうだね」と言えるような私にならせていただきたいと、最近しみじみと思っています。若い頃の純粋であった、「このお道の信心で仕合せになってもらいたい」との願いは少し変わり、今では「このお道の信心で共に仕合せになりたい」という願い成就のために、いつでもどこでも「金光さま」とみ名を唱えて、信心実践を進めている最中です。

(2016/3)

   




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