神人あいよかけよの生活運動

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金光教報『天地』 3月号 神人あいよかけよの生活運動


ここに神が生まれる

 大矢嘉師(アメリカ・サクラメント)が金光教報「天地」に執筆した内容を紹介いたします。


取次の言葉
 神と人の間に生まれた言葉は、人を神に向かわせ、神を動かします。
 立教150年を迎えた2009年、ご本部にて、6回に分けて教会長信行会が開催されました。私が参加させていただいた、6月の信行会での出来事です。
 ご本部広前は、韓国、南米、北米、ハワイ、そして日本各地から集まった教会長の黒衣姿で埋め尽くされていました。開会のご祈念にも力が入り、それがピークに達すると、「このお道を世の人々へ」という願いが一つになったように思えました。
 この勢祈念後、教務総長が皆を代表してお届けした時のことです。それまでには無かったお言葉が、金光様から下がりました。「神人の道」です。
 これは、常に私たち人間のことを願ってやまない神様と、その神様への私たちの願いが重なり合う瞬間を見事に捉えたお言葉です。「このお道」を願う氏子に、「神と人とあいよかけよで立ち行く道」と仰せになるもったいなくありがたい親神様のお心を感得された金光様は、「このお道」は「神人の道」と端的に表現されました。この斬新なお言葉は、躍動感をもって、その場にいた多くの人々の心を捉えました。広前を出て境内を歩く私を、「かみひと」とつぶやきながら足早に追い越していかれた故佐藤光俊教務総長のお姿を思い出します。

神人の道
 金光教では、まったく異質と言える神と人との間に「あいよかけよで立ち行く」世界が開かれていきます。その時、神と人が密接に働き合っているため、どこまでが神で、どこからが人か分からなくなります。そのため、自分のなかに神を認識しつつ、神のなかに自分がいるような一体感を伴います。この「神人一致」を「神と人」の「と」を取り除き、「神人」とすることで、金光教の信心の極みを見事に表現されたのです。
 この「神人」状態は、何も特別なことではありません。例えば、あれこれ考えないで動いて人間業とは思えない結果につながるのは、スポーツ界ではよく見掛けることです。
 昨年の流行語のひとつ、「神ってる」も、そんな状況を表現したものでしょう。英語では「ゾーン」という言葉を使って人間を超えた領域に入っていることを表現するようで、バスケットボールでシュートが連続的に入る選手の動きはまさにそれです。どんな体勢であっても、その選手の手を離れたボールは確実にネットに吸い込まれていくような軌跡を描くのです。
 1980年の全米オープンで、アメリカのジャック・ニクラウス選手と日本の青木功選手が、最終日まで優勝を競り合いました。結果は、ニクラウス優勝、青木2位でしたが、どちらも素晴らしく、最高のゴルフでした。私は、その最終日の様子を、手に汗を握りながらテレビ観戦していました。
 2人のゴルフは対照的でした。失敗を恐れず、ダイナミックに攻めるゴルフで観衆を魅了するニクラウスに対して、青木は冷静かつ的確に、次々とアイアンを決めます。しばらく勝ちのなかったニクラウスの久々の勇姿にギャラリーは皆興奮気味で、誰からともなくささやかれた「ジャック イズ バック(われらのジャックが帰って来た)」という声援が、最終ホールのグリーンに向かう頃には大合唱になっていました。そんなプレッシャーのなかで淡々とプレーする青木の姿に、私は品格のようなものを感じました。
 後日、青木はこの時のことを、「2位ではあったけれど、自分のゴルフ人生で最高のプレーだった」と振り返ったそうです。彼は、「あの時、条件や球に対してほとんど体が勝手に動いてプレーをしていた」と言うのです。「150ヤードだから、7番で、こう打とう」などと考えることなく、「その場に立ちポールを見た瞬間、7番を抜いて、これくらいの感覚でと、勝手に動いていた」と。
 これはたゆまぬ練習を積んだトップアスリートに起こる現象ですが、「神とひとつになる」私たちの信心の稽古にも相通ずるところがあるのではないでしょうか。教祖様のみ教えをもとに、予測可能な世界に甘んじようとする自分が見えた時、私は、思考を一旦停止し、自分をリセットして起点に戻します。

道の起点
 昨年11月、ご本部で出会ったある先生から、決意とも受け取れるありがたい話を聞かせていただきました。
 「最近どんな信心をしておられますか」と尋ねる私に対して、その先生は、「まずは、願う氏子になろうと思っている」とおっしゃったのです。そして、「『生神金光大神差し向け、願う氏子におかげを授け』との神様の約束があるのだから」と付け加えられました。その時、「こうしてあなたと話ができるのも、教祖様のご縁につながってのことじゃ」と仰せになられた四代金光様のことを思い出し、ありがたくなりました。
 この「願う氏子になる」という言葉をしばらく心のなかで反すうしていて、私はあることに気づきました。私たちは幸運にも教祖様のご生涯を知っていますが、残念なことに、知っているがために、その教祖様の体験を実感できていないのです。ですから、神様と自分の関係が成り立つ前、つまり神様を知らない自分として神様に心を向け、ただただ「願う氏子」に徹するところを通らなければ、神様との関係が見えず、手応えがないのです。ですから、金光大神様のごひれいを頂きつつ「願う氏子」になることは、取次をする者にとって最も真摯な態度で、神人の道の起点でありましょう。

取次ぐ
 お取次では、あくまでもお参りになる人の信心を引き出し、「信心しておかげ受けよ」とおっしゃる神様のお心に添う「神の氏子」として、「神ありての氏子」を肝に命じ、「神に使われる氏子」になることを目指します。しかし、さまざまな「願う氏子」がお参りになります。
 そのなかに、「先生、私の願うとおり神様にお願いしてください」と言ってお結界に来られた方がいました。その方は、自分の願いが私を経由することで、どのように変えられて神様に届くのか不安になったのでしょう。
 このことがあってから私は、「何をどう願うか」をお届けされた方とはっきりさせることにしました。これは参って来られた方と取次ぐ私とのギャップを埋めて、「願い」を一枚岩にするためです。でもたまに、「これは願えない」と思うお届けに出会うことがあります。
 そんな時、私は正直に「ごめんなさい。その願いだけでは神様に受け取ってもらえるかどうか自信がない。そんな私を本気にさせてもらえないだろうか」と、参って来られた方に申し上げ、その方の信心を促すのです。

壁を越えて世界へ
 言語、文化、社会と、私たちの前に立ちはだかる壁はいろいろですが、その正体は、人間が作り上げた既成概念です。教祖様は、既成概念を内包する形で見事に壁を越えて、「神人の道」を開き、神徳を輝かせました。
 「教祖様のご縁につながる願う氏子」である私たちに、越えられない壁はありません。立ちはだかる壁があるおかげで教祖様に近づく信心の稽古ができる訳ですから、さしずめ閉塞感漂う現代は金光大神が生まれる好機と言えます。どんなに強固でも、私たち一人ひとりに差し向けられた壁として、お道が世界へ広がる一端を担うイメージを心に描きつつ、その壁をも包み込むように存在する神様とひとつになって、それぞれの持ち場立場で「神人の道」を出現させ、「このお道で世界を包み回すような」おかげを蒙りたいと願っています。
 海外で布教をするのが世界布教ではありません。金光教が人類のために存在する。そのために既成概念の壁を越えて天地を開き、「神人の道を現す」ことこそが世界布教なのです。

二つの願い一つの心
 60歳の時、布教を差し止められた教祖様は、お広前を退かれ、参拝者と直接会うことも禁じられました。教祖様のもとに次々に訪問される願う氏子、その氏子を助けたいと願う神、その二つの願いが行き交う間に存在していながら話すことを許されなかった教祖様は、別室で願い続けておられたことでしょう。その時、込めた願いが形になったのが天地書附です。そして、神様から命じられるままに、形を整えた書附を書きため、いつも心に掛けて忘れぬように説きながら参り来る人たちに手渡していきます。これは、教祖様に始まる「天地書附を体する信心生活運動」と言えるのではないでしょうか。
 教祖様の書かれたオリジナルの天地書附には、「天地金乃神」と書かれた下にはっきりと、「一心二願」と書かれています。これを私たちは、「一心に願え」と唱えさせていただくようになりました。いつしかそれが当たり前のようになり、「一心不乱」や「一所懸命」に近いニュアンスで捉えているように思います。その「一心に願え」を、次の行の「和賀心」で、身勝手な「一心」ではなく、和らぎ喜ぶ「一心」であると、説明を加える構成になっているように受け取れます。
 ここでもう一度、教祖様が神前撤去の際、別室で空間を行き交う「氏子の願い」と「神の願い」の狭間で、「二つの願い」が「一つ」になるように念じておられたであろうことに思いをはせましょう。
 あの2009年の教会長信行会で、氏子である教会長の願いと、氏子を助けたい神様の願いが一つになり、「神人の道」という取次の言葉を得たように、「氏子の願い」と「神の願い」が一つになるところに生神金光大神が現れ、神人の道が開ける。そして神と人の空間に存在する言葉は、いつでもどこでも「和賀心」で頂くことができるということではないでしょうか。この「和賀心」に生まれた言葉は、難儀な人を幸せへと導く神様の力を宿していて、「神人の道」へ人をいざないます。これが、生きた取次の言葉であり、いつでもどこでもどんな言語でも生まれ続けることを、天地書附が私たち一人ひとりに静かに語りかけているように思えるのです。ですから天地書附に込められた願いに添う生き方を心掛けることで、生神金光大神のごひれいを頂き、「神人の道」が開けると信じています。

願わされ願う
 金光大神様のごひれいのなかで願い、おかげを頂いたことがあります。昨年6月18日早朝、私は、目の前に見事な満月を拝みながらサンフランシスコ空港へ車を走らせていました。カナダの金光教バンクーバー教会設立50年祭に参拝するためです。
 バンクーバーにお道が伝えられておよそ100年になりますが、国の事情で教会設立に時間を要しました。その間、アメリカから国境を越えて集会を続けた先生方をはじめ、多くの方々の願いがかない、教会の設立に至っています。
 その日、早く出発ゲートに到着した私は、椅子に座り心中祈念をしました。飛行機に乗る前は無事安全を祈るのを常としていますが、その時は、ふと気づくと「皆様の空の旅が快適でありますように」と願っていました。
 私の乗った飛行機が、上空を滑るように順調に運行していた時のことです。突然、「誰か、お医者さんを」と叫ぶ若い男性の声がしました。声の方を振り返ると、激しく震えている若い女性の姿が目に入りました。私はその時、「神様はこの事態が起こることを承知しておられた。だから私は、飛行機に乗る前に快適な空の旅を無意識のうちに願っていたのだ」と思いました。つまり、先に願わされていたのです。ですから、その時のご祈念は、「このことは、願い済みです」から始まりました。続けて、「バンクーバー教会は、カナダの人たちが助かるために、あなた様がお開きになった金光大神様のお広前です。今日は、そのお教会50年の祭り日。祭日はおかげ日。どうかこのカナダの氏子をお助けください」と願いました。すると、その女性の震えが止まり、看護師がやってきて手当てを受けることができました。この時私は、金光教バンクーバー教会のお取次を頂いたのです。
 神様は、その土地の人たちを助けようと、金光大神様をお差し向けになり、常に氏子のことを願ってくださっています。ですからその氏子が助かるためには、そこにある教会のお取次を願い頂くのが一番だと確信しました。神の願いと氏子の願い、二つの願いが一つになる時、金光大神様のお取次が成立するからです。
 世界に広がる1500を超える広前は皆、金光大神広前です。神の願いと氏子の願いが触れ合い重なり一つになって、金光大神につながり神が生まれる瞬間を、世界のあらゆる場所で迎え続けたいと願っています。

(2017/3)

   



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