信心運動

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教報天地 4月号 人が人を助ける時代を開く

 「神人(かみひと)あいよかけよの生活運動」の「願い」は、教主金光様がお示しくだされた「神人の道」のおぼしめしを頂いて、教祖様に始まるこの道の信心や助かりの筋道を表現したものです。その「願い」の精神について、和泉正一布教二部長が、信行期間朝の教話で語った内容を紹介します。

 信心の二つの面

 私はかねて、お道の信心には2つの面があると思ってきました。1つは、「自分が信心して、わが身におかげを頂く」という面と、もう1つは、「おかげを頂いた自分が、世と人のお役に立つ」、あるいは「世と人のお役に立つことで、自分がおかげを頂く」という面です。この2つが、お道の信心の大切なところとして、今日に伝わってきていると思います。

 教祖金光大神様のみ教えを拝すると、このことを生涯かけて私どもに教えてくださっていると思えます。例えば金光教教典の一節、「神より金光大神にいつまでも尽きぬおかげを話にしておくのぞ。信心しておかげを受けたら、神心となりて人に丁寧に話をしてゆくのが、真の道をふんでゆくのぞ。金光大神が教えたことを違わぬように人に伝えて真の信心をさせるのが、神へのお礼ぞ。これが神になるのぞ。神になりても、神より上になるとは思うな」(理解Ⅲ・金光教祖御理解61)というみ教えは、その二つの信心の姿を端的に示したものです。

 信心を始めた頃は、まず自分がおかげを頂かなければなりません。おかげを頂いていない者が、人の面倒をみるようなことはなかなかできません。そして、おかげを受けたら、お役に立つような生き方をしていくというのが1つの筋道ですが、少し見方を変えると、世と人のお役に立つために自分がおかげを頂くという信心もあるのです。

 例えば、自分が病気になった時、痛みや苦しみから病気が治るおかげを頂きたいというのは誰もが思うことです。ところが、自分が病気になったら、家族も大変であり、仕事でも迷惑をかけることになるので、「家族や職場の人たちが心配しないよう、おかげをください」という願い方もあります。すると、それは自分の都合だけでなく、相手の立場でものを考え、自分がおかげを頂かなければならないということになります。

 つまり、自分の心の向きが変わったところに、お道の助かりの姿、人間として生きるべき姿があるように思います。金光大神様のご生涯は、まさにそのような生き方であられたと思うのです。

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 外から問われる意識

 今年の年頭、「神人あいよかけよの生活運動」が発足し、向こう10年間、取り組ませていただきます。これまでの「運動」の継承と展開として取り組むわけですが、「金光教ではこういう信心運動をしています」と世に示す時、一般の人からすれば、「その運動をとおして、金光教は社会にどんな貢献をしてくれるのですか」と問われることもあるでしょう。その時の答えが必要だと思います。

 信心運動というのは、目的ではなく手段です。目的はどこまでも、神様と人間とが、あいよかけよで助かり立ち行くというご神願成就であり、神様の願いに沿った生き方をさせていただき、神様の願いに沿った社会の実現を目指すところにあります。そして、そのことは、「願い」の1行目にも関わりますが、世の難儀な人々が金光教を求めてきた時、私どもは「世と人に開かれたお取次で、皆さんのお役に立とうとしています」「私たちは難儀な人のために、常にお取次を用意しています」と伝えていくことが大切だと思うのです。

 「願い」の2行目から4行目までは、信心を進めるための道筋を示したものですが、最後の行には「神人の道を現そう」とあります。これは私どもが願っている「神人あいよかけよの世界を実現する」ということではありますが、それは何も金光教だけのものではなく、人としての尊い生き方が込められています。

 「神人の道を現す」あるいは「神人の道を開く」という生き方に、人として尊いものを見ているということを、世に表明する意識が大切です。「金光教はいつでもお取次を用意して、皆さんのお役に立ちたいと思っています。ですから、信心しておかげを受けたら、『神人あいよかけよで立ち行く』生き方をしていただきたいのです」とお伝えする。これが「神人あいよかけよの生活運動」の大きな流れだと思います。

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 金光大神の道が金光教

 現在、金光教学院では、『金光教教典』や教祖伝『金光大神』を教材に学んでいますが、私の学院生時代は、旧『金光教教典』とご伝記『金光大神』でした。ご伝記を講義してくださったのは故・佐藤博敏先生(広島県芸備教会、教老)でしたが、先生が「道」ということについてお話しされたことがあります。

 それまで私は、金光教団というのは、信心する人たちが作った信仰共同体であり、それが組織を持って機能していると考えていました。ところが、ご伝記の冒頭には、「神命を奉じて、神と人との取次に立つ金光大神の道を、金光教ととなえる」と記されています。「金光大神の道が金光教である」というとらえ方をしたことがなかった私は、新鮮な思いで受け取らせていただきました。

 当時は、「生神金光大神取次の道」「生神金光大神取次の道の実現体」という言い方もされていましたが、教典抄『天地は語る』や教祖伝『金光大神』を拝読すると、「金光大神の道」ということについて、教典抄では最後の章が「生神の道」で締めくくられており、教祖伝も最後に、「金光大神が生涯かけて求めた、その生神の道をたどることである」とあります。

 つまり、私どもが生きる道は、金光大神様に始まる道の働きのなかで、最終的には生神の道を歩ませていただく、という道筋が見えてきます。このたびの運動で願われる「神人の道を現す」生き方も、同様でありましょう。

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 これまでにない信心

 これは私の思いですが、金光大神様が神様から差し向けられた意義は、それまでなかった信心を世に現されたことです。それまでは、神様や仏様が人間を助けてくださると考えられ、金光大神様も「神仏願い」というお言葉を残しておられるように、ある時まではそのように思われていた。ところが、どうもそれだけではないと気づかれたのです。

 「わが心でわが身を救い助けよ」というみ教えがありますが、神仏はもちろんお守りくださるけれども、自分の生き方によって、自分の身を助けていく。あるいは、「人が人を助けるのが人間である」という生き方ができなければ、世と人は助かっていかないということを、金光大神様は神様から教えていただかれたのです。つまり金光大神様は、それまでの神仏が人を一方的に助ける信心とは違う、人が人を助ける信心の道を開かれたと、思わせられるのです。

 信心というと、み教えに則って窮屈な生活をしなければならない、と思われる向きもあるかもしれません。しかし、お道の信心はそうではなく、神様のお守りを頂きながら、自分の思うところに行けるということです。そして、生神の道を歩んでいくと、それまで思ってもいなかった生き方が生まれ、自分の人生に限りない可能性が見えてきます。

 違う言い方をすれば、人間は、新しい道を開く限りない可能性を秘めています。それは神様が人間に与えてくださった崇高な生き方であり、人が人を助ける時代を開いて生きていくこと。そのような世と人のお役に立とうとする人間が、神様と一緒に歩ませていただくという心で生きる。そこに宗教的な尊い生き方を見ているということを、人々に訴えていく。それが大切だと思うのです。

(2012/04)

   



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