信心運動

HOME › 教会信奉者の方へ › 神人あいよかけよの生活運動 › 「教報天地」運動のページ

教報天地 4月号 神人あいよかけよの生活運動

教祖の信心に基づく教説を共有

 前号に引き続き、昨年の第三回教師セミナーで行われた「神人あいよかけよの生活運動」についてのパネルディスカッションから、その概要を紹介する。パネリストは、山本正三師(布教一部長)、安武秀信師(教会部長)、西川良典師(大阪・藤井寺)、司会は布教一部次長。

司 会 このたびの「運動」により、各教会にある教説がよみがえり、現代に生きたもの、布教力のあるものになっていくのではないかと思います。

西 川 一児を持つ三十代の女性が、友人が乳がんにかかり、自分も不安になって診察を受けたのです。すると、左乳に影があり、進行が早くてリンパにまで転移し、「深刻な状態」と言われたそうです。国立がんセンターでも同じ診断で、詳しい結果は一週間後に出ると言われました。
 それを聞いた女性の祖母が、「これは神様からおかげを頂くしかない」と思い、母親がその方を連れてお参りされました。私は、「母も二十年前に乳がんと診断され、三度も手術しましたが、神様のおかげを頂き、今は元気にならせてもらっています。あなたもきっとおかげを受けられます」とお話ししました。しかし、その方はもう人生をはかなんで、聞く耳を持ちません。ところが話のなかで、この方は流産したことで、乳がんの検診に行くことになったことが分かりました。
 それで、「人間は、天のお父さんと地のお母さんによって生かされているのですよ。産んでくださいと頼んでもいないのに、この世に生を受け、今日まで何十年間、毎日食事を頂き、消化吸収して排泄のおかげを頂き、知恵も力も頂いてきた。神様が片時のお休みなく、お働きくださっているのです。あなたは自分の力で生きてきたと思っていますが、神様以外にそのようなお働きをしてくださる方はおられないのではないですか」と申しました。すると、「何日も食事がのどを通らなかったのに」と言われながら、お昼の弁当をぺろっと食べられたのです。
 その方が「拝んでください」と言われたので、「私には拝む力はありません。ただ私が毎日していることは、岡山県に金光教本部があり、そこで日夜、金光様がお取次をくださっておられますので、このお広前から金光様のお取次を頂いて、信者さんがおかげを頂かれているのです」とお話しし、「『金光様、お取次をお願いします。どうぞ、乳がんの病巣に入ってくださり、よい細胞に作り替えてください』とお願いされたらいいのです」と申しました。その方も納得され、「金光様に一筋にすがろう」と心を決められました。
 結果が出る朝、教会に電話があり、「お医者さんから何を言われても、受けさせていただきます。ここからのお導きをお願いします」と申されましたが、昼前に電話があり、がん細胞が消えていたと言われたのです。医師も不思議がり、再検査されたそうですが、異常なしということでした。
 数日後、家族そろって参拝されました。私は、「拝んだからとか、お願いしたからではありませんよ。おかげを受けられたのは、金光様のお取次によって、神様がお働きになったからなのです。お礼は金光様に申し上げましょう」と申しました。
 以来、その方は、朝目覚めた時、夜休む時、体のお働きにお礼を申し、食物にも、「どうぞ、神様のお命を頂かせてください。心身をお作り替えください」とお礼を申される生活が始まりました。私自身、その方の心の変化に驚き、信心を見つめ直させられています。

司 会 実際に説明がつかないようなおかげが生まれてくるなかで、各教会でそれぞれに大切にされ、聞き伝えられている教説を、「運動」の「願い」でいう「御取次を願い 頂き」ということから押さえ直すと、それは決して特別な教えではなく、「この道の話」という押さえができてきます。そこからお取次の中身も変わっていくと思うのですが。

安 武 教説と言っても、その土台には教祖様のご信心があり、「御取次を願い 頂き」「神のおかげにめざめ」というのは、「生かされて生きている」わが身の真実に気づくことで、信心して頂いたおかげが生まれてきます。「病気が治ってよかった」で終わるのではなく、「繰り返し取次を頂き直しては、おかげの自覚を深めていく」ことが大事だと思います。教説も、先生方が自身の信心から言葉に表しておられるものですから、その土台は教祖様の信心にあるはずです。
 例えば、私には夢でお知らせを頂いて助かった体験があります。教祖様の教えにも、「夢を見ても、うかつに見るなよ」とありますし、それを土台にして、小倉教会の桂松平先生は修行を重ね、「自分が死んだ後も修行して、手続きの者には一週間前に、大難のお知らせを夢にでも知らしてやる」と言われています。私はそれを信じています。そのことを信者さんにお話しすると、「私もこういう夢を見たので、お取次を頂きます」と言われます。これも一つの教説ですが、やはりその土台には教祖様のご信心があります。
 いろいろなケースがありますが、「御取次を願い 頂き」ということについて、例えば、新たに信心にご縁を頂いた方が、「仕事のことをお願いしてください」とお参りしてきます。教会でお取次を頂きながら仕事をすると、非常に都合がいいことを感覚的につかまれます。少しずつ天地のご恩や、神様に生かされて生きている私たちであることをお話しさせていただきますが、そういう意味では、「御取次を願い 頂き」、少しずつ「神のおかげにめざめ」ている状況であり、そこから信心を進めて、おかげの自覚を深めていけば、次第に「お礼と喜びの生活」にもつながっていくと思います。「運動」は非常に広やかなのだと思うのです。

司 会 例えば、つらい心の内を誰かに聞いてもらうだけで楽になるということが、心理学やカウンセリングでも証明され、それはお取次でも大切な部分ですが、一方で、この道のお取次には、一般的にいう「心が楽になった」とは質の違うものが生まれていると思いますが。

安 武 本人は神様を自覚していなくても、夫婦の関係、親子の関係、いろいろな事柄や物への感謝の思いが生まれるのは、四代金光様がおっしゃられた「世話になるすべてに礼を言う心」に通じます。自覚していないだけで、神様から頂いている心が目覚めているのだと思います。その芽吹きを大事に育てていけば、必ず神様につながっていくと思います。

山 本 教会にお参りされている方が、「嫁との関係が難しいのです」とお届けされました。その日は愚痴を言われて帰られましたが、数日後の月例祭で、私が常日頃から大切にしている「理屈があっても、みなまで言うな。理屈とくさびは八合詰め。詰める紙袋は裂ける。あいよかけよで世は治まるのである」という唐樋常蔵師の伝えから、師の信心のあり方をお話ししました。
 それは、師の奥様が大酒飲みで、非常にやんちゃな方でしたが、師は教祖様の教えをもとに信心が練り出され、「連れ添っていれば、わが妻であるけれども、別れてしまえば、よそ様の家の大事な娘、神様の氏子である」と悟り、「わずかでも手伝ってくださればありがたい」と思われました。そこからさらに信心が進まれ、次第に奥様との関係が改まっていったというお話をさせていただきました。
 その方は、「私にお話しくださったような内容でした。今までは、うちの嫁としか思っていませんでしたが、よくよく考えれば、よそ様の大切な娘であり、神様の尊い氏子なのだと気づき、これまでの見方が変わりました」と言われました。すぐにおかげを頂くという事柄ではありませんが、その方は生活のなかで日々稽古をされ、お嫁さんにお礼が言える気持ちが生まれてきました。
 以前の私であれば、そういうお届けがあっても、「お願いしておきましょう」というだけで終わっていたかもしれません。しかし、信心の筋道といわれる「運動」の「願い」から見ていくと、新しい気づきがあり、そのことを伝えていけば、少しずつでも理解してくださる方も生まれてくることを、あらためて感じました。

司 会 「運動」の「願い」は助かりの筋道である、と確認させていただくとともに、先人たちの信心をいま一度見つめ直した時、それまで見えてこなかったものが見えてくるというお話もありました。また、「御取次を願い 頂き」という文言に込められた内容の深さもあり、「願い」の一行一行をどう深めていくかも、「運動」展開の大切な中身だと確認させていただきました。    さらに、そのことをとおして、それぞれの教会や地方にある教説が、教祖様のご信心を土台にして練り出されたもの、生まれてきたものと捉えた時、時代を超えて今に生きてくるものであり、次第に全教に共有できていくような可能性を感じました。

(2013/04)

   






このページの先頭へ