信心運動

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教報天地 5月号 神人あいよかけよの生活運動

「神人の道」を一人ひとりの生活に

一月の「信行期間」に当たって、本部では「教祖百三十年を迎えて、『神人の道』を一人ひとりの生活に」というテーマで、「朝の教話」が行われた。そのなかから、「神人あいよかけよの生活運動」に関わって話された内容を取り上げて紹介する。

お礼を申したことがない
 昨年六月、六十年来信心してきた婦人が、教会に参ってこられました。「この頃、ご飯が食べられず、お神酒とお菓子以外は食べられなくなりました。それでも嫁が食事を作ってくれますので、こっそり外でカラスにやっています」と言われました。
 教会から車で四十分ほどの所に住んでおられますので、いつも妻がお宅まで送っていきます。その車中、次のような会話があったそうです。
 「先日、友人に、『私はいつもお礼を申してお風呂に入るのよ』と話すと、『わが家の風呂に入るのに、どうしてお礼なんか言うのよ』と驚かれたので、『神様から頂いたお恵みのなかでお風呂に入らせてもらうのだから、お礼申すのは大切なことよ』と答えると、『私には分からない』と言われました」
 「確かに信心のない人には分からないことかもしれないけど、例えばトイレに行ってお通じがあったら、ありがとうございますという気持ちになるのではないかなあ」
 「そんな人だから、ありがとうございますなんて言わないでしょう」
 「では、食事を食べる時はどうなのかなあ」
 「食べる時に『いただきます』と言って、食べ終わったら
『ごちそうさま』と言うのは普通ですけどね」
 そんな話をしたそうですが、その時、妻がある話を思い出しました。それは、ある学校で保護者の一人が、「うちの子には給食の時、『いただきます』と言わせないでほしい。私が給食費を払っているのだから」と申し出て、結局、納得できる結論が出ず、とうとう学校で「いただきます」と言うのをやめたという話でした。
 「いただきます」と言うのは、天地のお恵みである食物への感謝であり、作ってくださった人たちの労を思っての言葉です。そのようなことさえ見失われつつある現代なのです。その時も、「友人もたぶんお礼は言わないでしょう」という結論になりました。

「かわいそう」と思う心
 翌朝、妻がお結界に来て、昨日の話を聞かせてくれました。私はじっと聞きながら、「かわいそうになあ」という思いが込み上げてきました。それは、長い人生のなかで、一度も天地のお恵みにお礼を言ったことがない寂しさと、神様のおかげを知らない悲しさを思ったからです。そして、日々お礼を申している生き方との違いに、歴然としたものを感じました。そのことを妻に話すと、「本当にそうね。神様のおかげを知らないなんて、かわいそうだよね」と、ぽろりと涙を流したのです。その妻の思いの深さにまた、私自身も問われたように思えました。
 その日の夕方、信者さんから電話があり、「ご飯が食べられるようになりました」と言われました。私は驚きました。昨日お参りされた時は、「十年前に亡くなった主人が迎えに来たのかもしれません」と弱気なことを言われていたのに、妻との会話をとおして、「これまで神様にお礼を申してきたつもりでいたけれど、形だけになっていたかもしれない」という思いになられたのです。
 一か月後、その信者さんがお参りしてきて、「あの時にお話しした友人が、数日前から腕が腫れ、病院に行くと、『切って膿うみを出しましょう』と言われ、いざ切ってみると、『これは自分の手には負えないので、中央病院に行きなさい』と言われたそうで、『なんて無責任な医者だ』と怒っています」という話でした。私は、その話にまた、「かわいそうになあ」という思いが込み上げてきました。
 その後、いつものように妻が車で送っていくと、途中、スイカ畑がありました。その信者さんは、時期が来るとスイカをお供えされます。「畑の様子を見てください」と言われるので車を降り、二人で畑を見ていると、向こうからおばあさんが歩いてきます。腕に包帯をしていたので、「ああ、この人だ」と思っていると、やはりその友人でした。
 それで、何とか天地のお恵みに生かされているありがたさを伝えたいと思いましたが、どう話をしてよいか思いつかず、その人の手を握り、「この手が、きょうまでずっと、お役に立ってくださったんですね」と話しかけたそうです。それから一生懸命、妻なりに話をしたそうですが、最後まで「あんたは何を言っているの?」という顔をされていたそうです。
 信者さんと別れ際、「何も伝わらなかったようね。やはりあなたがお友達として、神様のありがたいことを、繰り返し言ってあげたほうがよいのかもね」と話したとのことでした。

「ありがとう」という生活
 すると、その二日後、信者さんから電話があり、先日の友人が妻のことを、「どういう方なの?」と尋ねたそうです。聞くと、妻に腕を触られたその夜から腫れが引き、翌日、病院に行くと、医師が驚いて、「これなら中央病院に行かなくてもいい」と言ったというのです。「すごい人だねえ。ほかにも痛いところがあるから、触ってもらいたい」と言うので、「それよりも、治ってありがたいという心持ちが大切よ」と伝えたとのことでした。
 私も驚きました。「かわいそうになあ」と思い、「一度でもいいから、ありがたいという心持ちになってほしい」とお願いするなかで、神様がお働きくださって、このようなおかげの事実が生まれてきたのです。
 今、信者さんにその友人が、「ここが痛いのだけど、どうしたらいい」と尋ねてくるようになったそうです。「それはね、痛いところを押さえて、ありがとうございますと言うのよ」と伝えているそうです。すると、友人が、何かのことで娘さんに「ありがとう」と言ったそうで、娘さんが「これまで言ったこともないのに」と驚いたという話をしてくれました。
 「運動」の「願い」は、神様からのお呼びかけとして頂くこともできます。「どうか、お取次を頂いてくれ。神のおかげにめざめ、お礼と喜びの生活をすすめてくれ。神心となって、人を祈り、助け、導く働きを現してくれ」と、私どもにお声がけをしてくださっているのです。そのように「願い」を頂き、一人ひとりの生活のなかに「神人の道」が現されていく生き方を求めさせていただきたいと思います。

(2013/05)

   



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