信心運動

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教報天地 7月号 神人あいよかけよの生活運動

おかげの自覚を深める稽古

本年一月の「信行期間」に当たって、本部では「教祖百三十年を迎えて、『神人の道』を一人ひとりの生活に」というテーマで、「朝の教話」が行われた。そのなかから、「神人あいよかけよの生活運動」に関わって、安武秀信師(鹿児島・大口)が話された内容を紹介する。

天地の恩に報いる稽古
 私は、「神人あいよかけよの生活運動」の「願い」の二行目にある「神のおかげにめざめ」という内容を深めることで、「神人の道」に近づくことができると思っています。
 八十二歳のAさんは、教会から三、四キロ離れた農家で、月例祭にはタクシーでお参りされます。ある日、「先生、今年の田植えは六月三十日でしたが、おかしなことがありました」と言われました。
 農家では若い人が少なくなり、Aさんも夫を亡くした後は、自分でお米を作ることができなくなりました。それで、一軒の大きな農家がAさんのような家の田んぼを何十町と引き受け、大きな農機具を使って作業をします。そのため、自分の思う日に田植えできず、お任せするしかありませんが、今年は田植えが遅かったそうです。それでも十月を迎えると、Aさんの田んぼでは稲が立派に実りました。ところが、同じ日に同じように作業をした近所の田んぼでは、稲の出来が悪かったそうです。
 私はその話を聞いて、「Aさん、田植えをする時、どうされていますか」と尋ねると、毎年、自宅の神棚にお供えしたお神酒を持って、「今からあなた様のお土地に田植えをさせていただきます」と祈りながら、あぜ道から田んぼに頂かせてもらっているということでした。私は、「神様のごひれいを頂いて作らせてもらった田んぼと、そうでない田んぼの違いかなあ」と答えて、Aさんの田んぼを拝みに行かせてもらいました。
 甘木教会の初代教会長の頃、ある農家の方が、「あなた様のお土地に入らせていただきます」と拝んで、畑に入っていたそうです。ある日、鍬の先に付いた土を足で落としていて、はっとしました。「神様のお土地である畑に入らせていただいておりながら、そのお土地を足蹴にしていた」と気づかれたのです。次の日から竹べらを持参し、お礼を申しながら竹べらで土を落としていると、それまでおかげを頂くことができなかった持病が全快したのです。
 教祖様が「仕事のまねはだれでもできるが、心のまねができぬから」とみ教えくださっていますが、竹べらを使ったからおかげを頂いたのではなく、その方の心が神様に向かい、天地のご恩をより深く感じる心になったからこそ、おかげを頂かれたのです。Aさんも同様に、天地のご恩を自覚し、心を神様に向けたことで、ごひれいが現れたのです。

繰り返す信心の稽古
 毎朝、Bさんという方がお参りしてこられます。去年の大晦日のことでした。「先生、きのうは危機一髪でした。本当におかげを頂きました」とお届けされました。友人を乗せて車を運転していると、トラックが突っ込んできて、寸前のところで事故をまぬがれたということでした。
 Bさんは去年の一月、胃ガンでおかげを頂かれ、それで年末に、「今年は年始と年末におかげを頂きました」とお届けされました。それを聞いて私は、「最初と最後ではありませんよ。その間もずっと、神様のおかげのなかでお守りいただき、今日があるのですよ」と言わせてもらいました。
 実は一昨年の十一月、Bさんが朝参りをされた時、私はふと十五年前の出来事を思い出したのです。それは、Bさんが車で鹿児島市内に出発した時、町境の信号で止まると、すぐ後ろにパトカーが止まり、左方が消防署の前でした。その時、「ガスを消すのを忘れていた」と気づき、すぐに帰宅して大事に至りませんでした。そのことを思い出し、「そういうことがありましたね」と言うと、「いや、あの時、火は消していました」と言われる。「そうですか。十五年も前のことなので、私の記憶違いかなあ」と言って、朝ご祈念をさせていただきました。
 しかし、Bさんはその間、ずっとそのことを考えておられたのでしょう。ご祈念が済むとお届けに来られ、「やはり先生、火が着いていました」と言われました。本人は消したつもりで、小さな火が着いていたのです。「大変なおかげを頂きながら、いつの間にか記憶もはっきりしないことで申し訳ありません」と反省され、「ノートに書き留めて、決して忘れないようにいたします」と言われました。
 私は常々信者さんに、「信心の整理」として、「自分がいつ、どういうおかげを頂いたかを整理して、きちんと覚えておかなければなりませんよ」と伝えています。直信の荻原須喜師の伝えに、「今まで長う痛うてつらかったことと、今、おかげを受けてありがたいことと、その二つを忘れなよう」とあります。のど元過ぎれば熱さを忘れるお互いですから、神様のご恩を忘れないように工夫しなければなりません。Bさんは、お取次を願い頂くことによって、神様のおかげに目覚め直し、おかげを頂きやすい心の状態になられたのです。
 そして、年が明けた元日、「ここ数年、胃の検診を受けていませんので、今年は胃カメラを受けたいと思います」とお届けされました。それでガンが見つかり、すぐに入院された時、医師から「一番よい時期に発見しました」と言われたそうで、早すぎれば発見できず、遅すぎれば手遅れになるという意味だと思います。Bさんは、十五年前に頂いたおかげを自覚し直し、神様にお礼を申し上げる心が出来た時、次のおかげの世界が開かれていたのです。
 さらに、その病院に、たまたまBさんの友人が肺ガンで入院されていました。他人事ではないと思ったBさんは、その方にご神米を差し上げ、その回復をお願いされました。それからはお結界に来ると、「今日も命を頂き、御礼申し上げます。健康のおかげを頂き、御礼申し上げます。どうぞ、今日も神様が喜ばれる生き方ができますように」とお届けされています。

神様がご用に使いなさる
 そんなBさんが、「神様から夢を見せていただきました」とお届けされました。教祖様は、「手厚く信心する者は、夢を見ても、うかつに見るなよ。神は、夢にでも良し悪しを教えてやるぞ」とみ教えくださり、私もそのように信者さんに話しています。「どんな夢ですか」と尋ねると、「隣家に大難の象徴といわれるものが入っていく夢です。これはどういうことでしょうか」と言われました。私は、「おそらくその家も、神様のおかげを頂かなければならない家なのでしょう。まず、祈るところから始めましょう。そうすれば、神様がよい機会を与えてくださいます」と答えました。
 Bさんの隣家というのは理髪店で、奥さんを亡くした男性が一人暮らしをされています。糖尿病で次第に視力が衰え、Bさんの夫が散髪に行くと、虎刈りにされました。目が見えにくくなっているのです。これも神様が、Bさんを次のご用に使ってくださろうとしているのです。人の役に立たせ、お徳を積ませてやろう、めぐりのお取り払いをしてやろうとされているのです。
 「神人あいよかけよの生活運動」の「願い」の一行一行は、信心の基本といえます。「御取次を願い 頂き」「神のおかげにめざめ」る。神様のおかげはどこまでも広く深いものですが、その自覚をどこまでも深めていく。それが「お礼と喜びの生活」につながって、おかげを頂いた自分が、神様のご用、人が助かるお役に立たせていただく。そのような日々の稽古を積ませていただき、「神人の道」を歩んでいく生き方を頂いていくことが肝要だと思います。

(2013/07)

   



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