信心運動

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教報天地 8月号 神人あいよかけよの生活運動

お取次をとおして神様とつながる道

本年六月の教団独立記念祭時に、修徳殿講堂で「信奉者のつどい」が開催された。「御取次と祈りの中に」と題して、講師の北村清治師(徳島・徳島)が、「神人あいよかけよの生活運動」に関わって話された内容を紹介する。

妊娠の妻が出血
 二十三年前、結婚してすぐに妻が懐妊のおかげを頂きました。はじめての出産なので、「どうぞ、元気な子が生まれますように」と、日々ご祈念させていただきました。しかし、二、三か月たった頃、妻が出血するようになりました。不安定な時期でもあり、胎児だけでなく、もともと体が弱かった妻のことも心配でした。
 医師からは、「すぐに入院しなさい。家にいるのであれば、絶対安静にしなさい。次に大きな出血があれば、胎児の命の保障はできません」と告げられました。妻と相談し、教会長である親先生にお取次を頂いて、入院はせずにおかげを頂こうと決めました。 
 そのような時期に、教会の感謝祭を迎えました。妻は妊娠後も、月例祭には参列のご用を頂いていましたが、このたびは養生させていただこうと考えました。ところが、親先生にお届けすると、「神様のご用だから、参列のおかげを頂きなさい」とのお言葉を頂き、おかげで無事にご用を終えさせていただきました。そして、それを境に出血が止まり、その後は順調におかげを頂きました。
 その後、出産間際までご用をさせていただき、体の弱かった妻からは考えられないような安産のおかげを頂きました。私はそれまで、「神様が必要とされる氏子であれば、神様が命を継いでくださる」と思いながらも、内心では心配でなりませんでした。「やはり医師が勧めたように、入院させたほうがよかったのではないか」「参列するのは体に負担なのではないか」というご無礼な人間心が動き、親先生のお取次を素直に頂き、神様を信じきる気持ちにはなっていなかったように思います。
 この出来事をとおして、自分の考えの至らなさに気づき、改まりのおかげを頂くことができました。この間も、妻は心が揺れることはなかったようで、親先生の言葉を素直に実行する姿は素晴らしいな、と感じました。その時の長女も、今年三月に大学を卒業し、お道の教師にと自ら願いを立て、金光教学院で修行させていただいています。  

本当のお取次とは
 私は、お取次を頂くにも願い方が大事であると実感しています。「神人あいよかけよの生活運動」の「願い」の一行目に、「御取次を願い 頂き」とありますが、では、どういうお取次の願い方、頂き方をさせていただくことが大事なのでしょうか。それを間違うと、後の四行にもつながりにくくなってしまうのではないかと思います。
 私どもの教会に参ってくる信者さんも、お取次の願い方、頂き方は人それぞれに違います。病気をされても、「先生どうぞ早く治るようにお願いしてください」と、電話でお届けをされる信者さんもいます。「どうぞ、早くおかげを頂かれますように」と願わせてはいただきますが、「果たしてそういう願い方でよいのかな」と思います。
 「早く痛いのが治りますように」とお願いされる方は多いですが、そこから一歩踏み込んで、「どうぞ、神様のご用に使っていただける、元気な体にお作り変えください」と願われる方は少ないようです。目指すところは、病気が治るという同じところであっても、果たしてどちらの願われ方を、神様は喜ばれるのか。そこで神様のお働きも違ってくると思います。
 教祖伝『金光大神』に、金光四神様の次のようなお話が載っています。
 <ある冬の寒い日に、宅吉(四神様)は、金光大神の命めいによって浅尾(現・総社市)へ使いに出た。曇り空なので金光大神に、「傘を持って、行きましょうか」と伺うと、
 「傘は持って行かなくてもよろしい」
との返事だったので、そのまま出かけた。行く途中、玉島(現・倉敷市)を過ぎた辺りで雨が落ち始めた。見知りの茶店の主人が、傘を貸そうとしてくれたが、宅吉はその好意に感謝しながらも、「きょうは親様が、傘はいらないと言われたから」と断り、浅尾へ向かった。用向きが済んで引き返すころには、雨は一層強くなってきた。浅尾でも傘をすすめてくれる人があったが、同じように丁寧に断って、道中ずぶぬれになって帰ってきた。帰って事の次第を報告すると、金光大神は宅吉の心根をいたく喜んだという。一番上に着ていた単 衣(ひとえ)を脱いでみると、それが雨よけのようになって、その下は少しもぬれていなかった。>
 このお話には、神様の願い、お取次の頂き方が込められています。読ませていただくたび、「自分だったらどうか」と考えさせられます。まず私の場合だったら、「傘を持って行きましょうか」とお伺いすることはないでしょう。「雨は降るでしょうか」とお聞きし、「降る」と言われれば持っていくし、「降らない」と言われれば持っていかない。そのように、自分に都合のよいお取次の頂き方をすると思います。
 しかし、四神様は、「傘を持って、行きましょうか」とお尋ねになりました。四神様は、雨に濡れるかどうかを気にするのではなく、どうすることが神様のお喜びくださるご用になるのか。そのことを、教祖様にお伺いになっておられます。
 それに対して教祖様は、「傘は持って行かなくてよろしい」と仰せになります。私なら、「金光様が仰せになるのだから、雨は降らないのだろう」と勝手に思い、雨が降ったら、「傘はいらないと言われたのに、どうしたことだろう。あーあ、濡れてしまった」と、不足の心が出てきます。しかし、教祖様は、「傘はいらない」と仰せになったが、「雨は降らない」とは仰せになっていません。
 道中で傘を貸してくれる人が出てきた時も、私なら借りると思います。そして、教祖様に、「傘を貸してくれる人がいました。おかげを頂きました。傘はいらないと仰ったのは、こういうことだったのですね」と、勝手な解釈をしてお礼を言うでしょう。
 私自身、お取次を願う立場でもあり、親先生のお手代わりとしてお結界のご用をさせていただく者として、気をつけなければいけないところだと思っています。もし、信者さんが今の話のように傘を借りて帰ってきたら、「おかげを頂いたね」と、信者さんの喜びに合わせてしまうでしょう。それでは神様が用意してくださっているおかげの方向に、取次者として導くことができなくなってしまいます。神様より、傘を貸してくれた人に恩を感じて、「あの人のおかげで雨に濡れずに済んだ」ということになるでしょうし、そうなれば何のおかげか分からなくなってしまいます。それでは本当のお取次の願い方、頂き方にならないと思うのです。

お道であることの幸せ
 私の学生時代の友人に、古くから続く神社の息子さんがいます。十数年前、久しぶりに再会した時、友人が次のような話をしました。
 ある時、神社に参ってきた女性が、悩みを抱えた様子で手を合わせていたので、気になって声をかけたそうです。女性は心に抱えた問題を話しましたが、友人は何も言葉を返すことができませんでした。それで最後に、ご神前のお供え物を一つお下げして、「元気を出して頑張りなさい」と言ったそうです。話を聞いてもらっただけで安心したのか、女性は笑顔で帰って行きました。
 その後も何度か参ってきて、次第に明るい表情になっていく様子に安心していたある日、その女性が自宅に火を付け、隣家まで延焼して、罪に問われてしまいました。
 友人は、その女性が最初に参拝された時、何も話をしてあげられなかったことを非常に悔やんでいました。その時、私は、「金光教では、千五百余りある教会にお結界という場所があり、そこには先生がおられて、参ってくる信者さんの悩みを聞き、神様の教えに沿った話をする。そこから人が助かる働きが生まれるんだ」と伝えました。すると友人は、「それは素晴らしい。信者さんそれぞれに、悩みや問題に応じて教えができる金光教のお取次の働きは素晴らしい」と感動しました。
 長年お道の信心をさせていただいていると、教会にお結界があり、そこに先生がおられ、話を聞いてくださり、み教えをくださることが当たり前になって、それがいかに尊いものであるかを忘れてしまうのです。
 お取次を頂くと、そこに必ず金光様、先生の祈りが生まれてきます。それがあって、私たちの願いは神様に届き、神様とつながり、神様のご神意を分からせていただくことができるのです。四神様のお話に例えるなら、「雨が降っても、不足を思うなよ。人を当てにして、傘を借りるようなことをするなよ。神にすがれば、必ずおかげにしてやる」というのが、神様が氏子にかけられるご神意ではないでしょうか。

「はい」と答えて素直に実行
 私は愛媛県双岩教会に生まれ、二十五歳までお育てを頂きました。双岩教会初代教会長は祖母になります。初代はいつも、「『はい』と答えて、素直に実行させていただきなさい」と教えてくださいました。
 お結界でのご理解を神様のお言葉と頂き、素直に実行させていただく。私たちは、つい人間の側の道理に合った生き方をしようとしますが、神様の道理に合わせていただくのがお取次であり、そこでのお言葉を実行していくことで、神様の道理に合う生き方ができるのです。
 四神様のお話で申せば、雨が降りそうな時に傘を持って行くのは、人間の道理です。傘を置いて、濡れて帰ってもお礼が申せるのが、神様の道理です。そこに入り込んでいかないと、本当の神様のおかげを感じることはできません。お取次をとおして、神様と人がつながる道。それが「神人の道」であると頂いています。
 皆さんも教会で、それぞれに先生が身の上を願ってくださり、助かり立ち行きをお取次くださっています。そのお取次を、日々しっかりと頂き、自分のなかに広く大きい「神人の道」を作らせていただきましょう。人が通る道ですから、踏めば踏むほど道は広がっていきます。そのようなおかげを共々にこうむらせていただきましょう。

(2013/08)

   



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