神人あいよかけよの生活運動

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金光教報『天地』 4月号 神人あいよかけよの生活運動


予期せぬことが起きてきた時にこそ

本部広前月例祭前夜(平成26年11月9日)の教話で柏原正一師(広島・三庄)が話された内容を紹介いたします。


言葉の持つ力
 私は極度に緊張するたちで、話をするのが苦手です。そのため、小学校の頃に、つらいことを言われた経験があります。国語の授業で本を読む時に緊張し、文章として成り立たない読み方になってしまい、先生に「あんたはロボットか」と言われたのです。自分の気にしている欠点をみんなの前で言われ、教室中は大爆笑でしたが、私はとても心が痛かったことを、30年経った今でも忘れられません。
 言葉には、人を苦しめたり、喜ばせたり、感動させたりする力があります。私は、昨年のご霊地での天地金乃神大祭でかかわった、ある信者さんから頂いた手紙に感動させられました。
 その日は、とても風が強い日でした。私は駅係のご用に当たっており、祭典前の作業を終えて駅に戻ると、参拝者用待合所そばの橋(小田橋)の上に人の輪ができていました。近づいて見ると、参拝された年配の女性が、転んで口と膝から血を流していました。
 「病院に行った方がよい」という話になり、そのことを女性に伝えると、「病院には行きたくない。ご迷惑が掛かることはしたくない」と言われます。遠慮されていることが分かったので、半ば強引に車椅子で金光病院にお連れしました。駅から病院までの道は桜がきれいで、風も強かったため、桜吹雪が舞っていました。
 無事に受診することができ、それを見届けた私は、「これで失礼します。どうかゆっくりしていってください」と伝え、ご用に戻りました。「駅に戻っていれば、また会えるかもしれない」と思っていたのですが、結局、会うことができませんでした。
 後日、その女性から手紙が届き、このように書かれていました。
 「皆様がご用されている最高の場所で転びました。大変ありがたく、助けられました。帰りの電車も、少しも疲れることなく立って帰れました」
 私はその手紙を読んで、「ありがたい」と思うと同時に、「すごいなあ」と思いました。もし自分が同じことになったら、「人の多い恥ずかしい場所で、しかも本部参拝の道中に転んで、どういうことか」と思ってしまうでしょう。しかし、その女性は、「最高の場所で転ぶことができた」と言われるのです。予期せぬことが起きた時にこそ、その人の本当の心が出てくるのではないでしょうか。

人を責めず、傷つけず
 三庄教会には40年程前、庭にぶどうの木がありました。塀越しでも採れるほど大きなもので、その木にぶどうがなれば、いつも神様にお供えをしていたそうです。
 ある時、祖父である柏原喜久蔵先生が、中学生が塀越しにぶどうを取ろうとしているのを見つけました。「こらっ」と一喝すると、その子は逃げて行ったのですが、ふと見ると、今回だけではないと分かるほど取られていました。数日後、中学生は怒られた腹いせに、紙を丸めて投げ入れ、火をつけようとしていました。それを偶然に見かけた信者さんが、「何やってるの」と言うと、また逃げて行ってしまいました。
 「どうさせていただくのが一番いいか」と、祖父母は話し合いました。その結果、教祖様のみ教えに、「人はみな神の氏子である」「かわいいと思う心が神心である」とあるように、相手を責めたり、傷つけることないよう、教会にできたぶどうをその子の家へ持って行くことにしたのです。
 「神様にお供えしたお下がりですので、子どもさんと一緒に頂いてください」。そう言われてぶどうを手渡されたお母さんは、突然のことに訳が分かっていないようでしたが、子どもさんは、後ろからその様子をじっと見ていたそうです。それからは被害もなくなりました。そのことが、彼にとって改心するきっかけになったのです。

状況の変化に揺れる心
 最後は私の体験ですが、平成25年の3月、交通事故に遭いました。三庄教会は広島県の因島にあり、ご霊地でのご用が休みの時は、教会に帰らせていただいています。日曜日の夜、金光に戻る途中、ショッピングモールに立ち寄りました。駐車スペースを探していると、ちょうど前の車が右折しようとしていたので、スペースのあった左側から、私がその車を追い抜きかけたところ、その車が右折するのをやめて急に直進し、私が乗っている運転席側にドーンと衝突してしまいました。お互いにスピードは出ていなかったのですが、かなりの衝撃で、私の車のミラーが取れていました。「すみません」と謝ってきた相手に、私は思わず、「なに右折やめてるんだよ」と言ってしまいました。
 事故の相手は18歳の青年で、初心者マークを貼っていました。「相手がすべて悪い」と思っていた私は、そのことを知って、「これは、私にも非があるんだろうな」と思いながら警察に電話し、彼は父親を呼びました。私はいろいろ考えて、「彼を責めるのをやめよう」と思いましたが、警察に事情を話していると、父親が到着し、「どうもすみません。すべてうちの息子が悪いんですよね」と言われます。その言葉に私は思わず、「息子さんが悪いかどうかは分かりません。ただ、私は悪くはありません」と、面倒に巻き込まれたという思いから、相手を責めるような気持ちで答えてしまいました。
 「ではもう、このことは保険会社に任せましょう」と青年の父親が仕切ってくれ、壊れたミラーの応急処置もしてくれて、私は自分の車で金光まで戻ることができました。金光に戻る道すがら、「世の人がかれこれと言うのを、気にかけな。人の口には戸は閉たてられぬ。障子一重さえままならぬ人間の身の上じゃないか。先のことが何でわかろうぞ。負けて勝てい。すべて、物事はひかえ目にして時節を待てい」というみ教えを心に頂きながら、私はこのことはもう神様にお任せしようと思っていました。
 ところが、翌日、職場の先輩に事故のことを話すと、「柏原君、それは過失割合が5対5か、6対4になるね」と言われます。そう言われると、前の日に神様にお任せしようと思った心が揺れてくるのです。

神様のおかげの中で
 保険会社に電話で事細かく事故の状況を伝えると、担当者が私に「柏原さんは悪くないと思いますか」という質問をしてきました。私は一瞬答えに困りましたが、「しいて非があるとすれば、相手が初心者なので、もっと気をつけて運転すればよかったとは思います」と言うと、その人の態度が急変し、「それでしたら5対5、あるいは柏原さんの方が悪くなるかもしれませんよ」と言います。というのも、駐車場は信号機がなく、交通ルールがないのです。私は、「ちょっと待ってください。私の保険会社ですよね。なぜ私の味方をしてくれないんですか」と言いながらも、「いや、もうこの事は神様にお任せしようと決めたじゃないか」と思い直し、「あとは相手方に聞いてください。相手方の言うままを私は受け止めます」と言いました。
 すると、2、3時間後に保険会社から電話があり、「過失割合は、1対9になりました。柏原さんは1です。これでよろしいですか」と言われました。内心ほっとしながら、「相手もいろいろと気に掛けてくれたので、それで大丈夫です。先方も納得されているのなら、それでお願いします」と、話し合いはすぐに終わりました。
 後で聞くと、こういう事故の過失割合は、お互いが引かずに長引けば、1、2年続くこともあるようです。このことを知人に話すと、「ありがたいね」「おかげを頂いたね」と言われました。それでも、相手のことを思うと、素直には喜べなかったのですが、ある先生から、「交通事故で亡くなる人もいる。2人とも、けがはなかったんでしょ。それが一番のおかげじゃないの」と言われ、確かにそうだと気づかせていただきました。
 予期せぬことが起こると、人は平常心でいられなくなることが多々あります。この事故で、私はこのような対応をしましたが、これだけが正しいとは思っていません。信心は、こういう考え方もある、ああいう取り組み方もあるというように、生活の中で自ら練り上げ、積み上げていけば、きっとよりよいものができてくるはずです。共々に、起きてくることを神様のお働きと受け止め、先に紹介した女性のように、「最高の場所で転びました」と言えるような信心をさせていただきたいと思います。

(2015/4)

   



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