神人あいよかけよの生活運動

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金光教報『天地』 12月号 神人あいよかけよの生活運動


喜びから開ける道

東中国教務センター主催の鳥取県教会連合会「運動」信奉者集会で、近藤恵一師(岡山・幸島)が話した内容を紹介いたします。

教会後継に入って
 私は現在、妻と息子2人、教会長夫妻と6人で生活しています。もともとは兵庫県姫路市にある御立教会の二男として生まれ、学院を卒業した後、親教会である福崎教会に夫婦で修行に入らせていただきました。修行と言っても、実際に修行してくださったのは親先生の方ではないかと思います。その福崎教会で2人の子供を授かりました。その後ご縁があり、後継者として岡山県の幸島教会に家族で入らせていただきました。
 その時は、長男が5歳、二男は3歳でした。私たち家族は途中からその地域に入ったこともあって、最初はなかなかなじめませんでした。田舎で人の出入りがなく、小学校は一学年十数人で、地域の人たちは「金光様のところに来た子供」と知っています。私もすぐに「金光様の先生」と呼ばれて、「確かな人」と思ってもらえる反面、よそ者はなかなかなじめず、とくに二男はやっと関西弁を話し始めた頃に岡山に移ったこともあり、岡山弁との違いでからかわれ、クラス替えもありませんから、一度いじめられる立場になると、それがずっと続きました。
 私はそんなこととは知らず、二男が小学4年生になった頃に親にきつく当たるような態度をとるので、「どうも様子がおかしい。もしかすると反抗期かな」と思っていました。後から話を聞いて、いじめられていると分かりました。二男はなかなか集団になじめないところがあり、かといって特別なクラスに入るほどではなく、担任の先生が家庭訪問に来られた時に、「必ず治りますから」と言われ、こちらは「何を言っているんだろう」と思うほどでした。3年生の頃から、「いじられる」ことがずっと続いていたと知り、「これは大変なことだ」と思って、二男と「朝ご飯を食べる前に一緒にご祈念させていただこう」と約束をしました。学校のみんなが元気で勉強と運動と遊びができるようにお願いし、さらには、いじめてくる子の名前もお取次を頂いていくことに取り組みました。
 そして、二男とご本部にお参りした時には、お小遣いからご献備を整えて、自分で金光様にお取次を頂きます。すると金光様は、「おかげを頂きましょう。頑張っていきましょう」とおっしゃって下さいました。二男はお届けが終わってほっとしたのと、金光様からお言葉を頂いたことで、明るくなって教会に帰ってきました。学校へ行けばまたつらいこともありますが、毎日教会でお取次を頂き、金光様にお取次を頂くことを続けるうちに、だんだんと元気になってきました。
 ある時には、「みんなから『死ね』と言われたり、替え歌を作られて、『死ね』と言われた。僕が死んだらいいのなら、もう死にたい」と言ってきました。親として「これはいけない」と思い、学校に相談に行きました。「子供のために」と思ってのことでしたが、それ以来、二男は親に言わなくなりました。私が学校に相談したことで、同級生から告げ口したと思われたのでしょう。それでも二男は本部広前では、「こんなことがあって」と具体的にお取次を頂いて、だんだんとよくなっていくのです。
 5年生の時が一番つらかったようですが、一度も休むことなく学校に通いました。卒業を迎える頃には、学校が楽しくなくても、私たちに当たり散らしたり文句を言うこともなくなりました。私が「別に無理して行かなくてもいい。休んでもいい」と言っても、「いや、休んだら負けたことになるから行く」と言うのです。それを聞いて親としてはたまらない思いと同時に、「ああ、立派に育ってくれているな。金光様のお取次を頂くと、このようになれるんだ」と思いました。けれども、私は気持ちの上ではなかなか割り切れず、「なんで、わが子がこんな目に遭わなければならないのか」「なぜ、こんなところに来てしまったのか」と、夫婦で「あんたが悪い」「お前が悪い」と不平不足の言い合いになってしまうのです。子供の方は徐々によくなっていくけれども、親の方はどんどん悪くなっていくという状況でした。

息子の呼吸が止まる
 「今の状況を何とかしたい」と神様に願っていくうちに、二男が幼い時に命を助けられたことに思いが至りました。それは、幸島教会に後継に入ってすぐの頃で、子供たちと一緒にお風呂に入り、湯船に漬かって「100数えなさい」と言うと、二男が「いち、にい、さん」と急いで数えますから、「それならもう100数えなさい」と数え直させていました。お風呂が熱すぎたためか、二男が風呂から上がってしばらくすると、妻の叫び声が聞こえ、駆け付けると、二男が倒れ、すでに呼吸をしていなかったのです。その時に私の心に浮かんだのが、福崎教会の初代教会長夫妻のお姿でした。福崎教会の古いお広前にお2人が羽織はかまを着て座っている写真のお姿です。「これはご神前に行かなければ」と思い、すぐに着物を着て、二男をご神前の八足の上にお供えしてご祈念させていただきました。その時には顔が焦げ茶色になってチアノーゼが出ていましたが、ご祈念を続けるうちに、「この子が将来、お道のご用に立たせていただけるのであれば、ここで命を繋いでください」というお願いになっていきました。
 倒れてどのぐらい時間が経ったか分かりませんが、引きつけを起こしはじめました。高熱が出た時には何度か熱性けいれんを起こすことはありましたが、この時は先に呼吸が止まり、全身が焦げ茶色になっていたのです。慌てて八足の上から抱きかかえてご祈念させていただきました。すごい力で歯を食いしばるため、思わず口のなかに指を入れ、噛まれて痛いけれども、「ああ、生き返った」という喜びがありました。この時に命を頂いたからこそ、今の二男の問題があることを気づかせていただきました。
 そうすると、親である私と妻がこの何年間、喜びのない生活だったことに気づかせられました。二男がいじめられて帰ってきて、学校の先生や同級生の親同士の関係、閉鎖的な所に来てしまったという思いなど、不足ばかりでしたが、初めて命があっての問題だと気づかせていただき、「喜びをもってこの問題に取り組ませていただこう」と妻と話し合いました。そうしていくなかで、私たちのこれまでの9年間は、子供たちに助けられていたことに思いが至りました。

子供たちの繋がりから
 ある時に、長男と二男の体中に水疱(すいほう)ができました。2、3か月病院に通ったけれども治りません。病院を替えて治療を受けた時に、看護士が妻にそっと言ってくださったのが、「病院に来ても治らないよ。うちの子供も大学生になるまで治らなかった。体に菌の耐性ができるまでは治らないから、来てもしょうがないよ」ということでした。
 そう言われて、やっと神様に心が向きました。子供2人も神様のご用をさせていただいておかげを頂きたいと思い、ご大祭で吉備舞を奉納させていただくことにしました。私も妻も生まれ育った教会には吉備舞奉納がなかったので、私たちには知識も何もありませんでしたが、最初は近隣の教会の先生方に指導していただきながら、舞装束から扇まで全て用意していただいて、奉納させていただくことができました。子供たちの水疱は、初めての奉納後、1週間ほどで驚くほどきれいになくなりました。信者さんたちは昔の教会を思い出されて、「自分も幼い時に舞をさせていただいた。娘も舞をさせていただいた」と言って、涙を流して喜んでくださいました。そして、だんだんと教会に活気が生まれ、ご大祭もお参りの方が増えてきて、次第に普段もお参りされる方が生まれてきました。現在では、御立教会も、妻の実家の中泉教会も吉備舞を奉納させていただくようになっています。
 それから、節分祭も始めさせていただきました。当初は息子たちだけの豆まきでしたが、2年目からは子供たちに「友達を連れておいで」と言うと、2、3人連れて来て、それから次第に人数が増え、小学校の全校生徒が100人足らずのなかで、近年は約60人がお広前に来られ、数名の保護者も足を運んでくださるようになりました。まず、みんなでご祈念をし、5分ほどのお話を聞いていただいて、お菓子をまくようにしました。すべて息子たちの繋がりから始まったことで、そのことをもっと喜ばせてもらおうと妻と話し合いました。
 すると、私たちの心も次第に助かっていきました。二男も中学校に入って、頑張って友達を作る努力をしたようです。「喜び」をもって取り組めば違うということを分からせていただきました。

親の喜びに繋がって
 この「喜び」ということについて、私自身があらためて気づかせていただいたのが、御立教会の初代教会長であった父のご本部参拝の姿でした。幸島に後継に来た時には、月はじめの1日と月例祭の15日以外は普段はお参りの方がありませんでしたから、「私も取り組ませていただこう」と思い立ちました。父はご本部の月例祭の10日と22日に欠かさずお参りをしていました。姫路から金光まで120キロほどありますが、旅費がない時には、朝5時のご祈念を終えて、食事を頂いてから自転車で出発し、月例祭が始まる10時までに兵庫県と岡山県の県境の三石まで行けたそうです。そこで、ご献備を封筒に入れてポストに投かんし、祭典の間その場所でご祈念をして教会まで帰ってきていました。そのことを見習って、「父がしてくれた苦労を自分も」と思い、年に1度幸島からご本部まで50キロ余りを自転車でお参りすることにしたのです。
 3年目までは意気揚々と、休憩することもなく参拝できました。ところが、四年目には岡山市内を過ぎたところから、お尻が痛くなり、お尻を浮かせて自転車をこぐと、今度はふくらはぎがつるようになりました。いよいよ倉敷まで来た時に、自転車もこげなくなって休憩をとりました。すると、自分で決めて始めたことが、だんだん不足になってくるのです。そうなると、「こんなことをしていて神様は参拝を受け取ってくださるのか」とまで思うようになり、いつもは3時間ほどでお参りできるのが4時間余り掛かって、途中で帰ることもできない状況でした。
 ところが、そのような心でも本部広前に座らせていただくと、すーっと不足がなくなるのです。体の痛みもなくなりました。「ありがたいな」と何の理屈もなしに思え、ご祈念してお結界に進み、お取次を頂く時に、いつもと同じように「きょうは父と一緒にお参りさせていただきました」とお届けさせていただくと、金光様が「近藤氏」というご神米と、初めて、「成田氏」というご神米の2つを下げてくださいました。そのことで、「ああ、金光様はやっぱり見抜き見通しなんだ」と思わせていただきました。
 私はお参りの途中に、「神様は受け取ってくださっているのか」「父は本当に一緒に来てくださっているんだろうか」「こんなことして何になるんだろうか」と、いろんなことを思いながらお参りしたけれども、ちゃんと父もついて来ている、神様も受け取ってくださっていると、ご神米をお下げくださったことで分からせていただきました。そうすると、帰りはうれしさが込み上げてきて、「きょう、父は喜んでくれたんだ」という思いにならせていただきました。
 そうして教会に帰り着き、お広前でご祈念していると、「私は今まで、父がご本部参拝の旅費もないなかで初代教会長として苦労してくれたおかげで、私たちが教師になり、ご用にお使いいただいていると思っていた。けれども、それは違っていた。父にとっては、自転車で1歩でも2歩でも、金光様のお結界に近づかせていただくことが喜びだったんだ」と気がつきました。私が苦労と思っていたことは全部、父にとっては「ありがたい」という喜びだったのです。
 父は農家の長男でしたが、家督を弟に譲って、師匠である福崎教会の初代教会長のお取次を頂いて、親から反対されるなかを、自ら望んで修行に入りました。願いを立ててから5年ほど掛かりましたが、入らせていただいた時は喜びいっぱいで、修行に入ってからも、師匠からはずっと怒られていましたが、それがうれしかったようです。
 よくよく考えると、そのような父の信心があって、私もお道のご用をさせていただきたいと思うようになりました。ご本部参拝のお金もないなかで、5人の子供を育てるのは大変だったと思いますが、みんなお道の教師にならせていただきました。それは、父母のご用に喜びがあり、私たちが育てられるなかにその喜びがすり込まれていたからだと思います。

喜びに気づく稽古を
 二男は今、「一緒に勉強する」と言って、教会に友達を連れてきます。部屋をよく散らかしますから、小言を言いたくなることもありますが、「いやいや、友達がいなかったところを、来てくれただけでもありがたい。喜ばせていただこう」と思い替えをさせていただく私です。けれども、そうすると子供たちがちゃんと片付けて帰ります。残りを二男と一緒に片付けながら、「よかったなあ」と言えます。そのように喜びに気づかせていただいたら、おかげを頂くのです。
 ささいな事でも喜ばせていただくには稽古しかありません。教祖様は山にこもらず、ご家族と共に生活をしながら、家庭や地域社会の問題を抱えて、一緒にご修行されました。私は今、家族でご用にお使いいただいて、それが修行になっていると思います。教祖様は、「金光様は喜びの道を開いてくだされたのじゃから、それをご信心申す者が、喜ばぬつらい顔をして日を過ごしてはならぬ。天地の親神様をご信心するのじゃもの、天地のような広い心にならねばならぬ」とみ教えくださっていますが、後から振り返ると、あの時はありがたいことばかりだったと思うことができます。喜びに気づかせていただく稽古、それがお道の修行だと思います。

(2015/12)

   



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