神人あいよかけよの生活運動

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金光教報『天地』 7月号 神人あいよかけよの生活運動


心を豊かに広やかに

 的場聡行師(大阪・上野芝)が金光教報「天地」のために執筆した内容を紹介いたします。


神様なんていない
 「この神様は、人を育てるのが得意な神様なんですよ」。先日、お参りされた方に話をさせてもらいました。
 信心を始めたばかりのこの方には、まだピンとこないようです。
 「私は、私を導いてくれる、何か大きなものがあるのは分かってきました。だけど、それが的場さんの言う神様と言えるのかはまだ分かりません」
 「はい、そうだと思います。私も最初は、神様なんていないと思っていましたから。でも、だんだん分かってくると思います」
 私は自分の体験を交えて、そう話しました。
 私は高校を卒業して就職しましたが、高校生気分が抜けず、まるで仕事をする心構えがありませんでした。入社早々の頃です。下請けの工場から入ってくる部品を管理する部署にいたのですが、あまりに暇で、倉庫の植え込みで寝ていました。徹夜マージャンで眠たかったのです。すると課長が来て、「的場君、外で寝たら人目につくから事務所で寝なさい」と言って、事務所に私の寝る専用の椅子を置いてくれました。皆が一生懸命に仕事をしている中で、私は素直にそこで寝たのです。さすがに眠れませんでしたが。
 今考えれば、なんて事をと思うのですが、そんな私ですから仕事が続くはずもなく、すぐに退社しました。夏のうだるような暑さの中、周りの友人や知人が立派に見え、落ち込みました。そんな状況が続くと、のんびりした私も、ようやく人生に真剣に向き合わざるを得ませんでした。

とにかく受けていこう
 19歳の時に、ご縁を頂いて私を置いてくださったのが、ご本部の金光新聞編集室です。よく入れていただけたものです。多くの方に迷惑を掛け、育てていただきました。
 中でも、ある上司に言われた一言が人生を変えてくれました。
 「的場、お前はまだ信心も何も分からんやろう。だけど、お前の身の上にこれから起きることは、全部神様からのお前へのメッセージなんだ。それをとにかく受けていきなさい」
 「受ける」。これは、それまでの私の辞書にはない言葉でした。
 それまではむしろ、何でも、「面倒くさい」「なんでそんなことをしないといけないんだ」と、ふてくされて避けていました。しかし、それではもう駄目だということが、自分でもだんだん分かってきていました。言葉を掛けてくれた上司は、人間味あふれ、説得力がありました。「よし、何でも受けていこう」。腹を決めました。
 受けるといっても、言葉は簡単ですが、なかなか実際には難しいものです。何事からも逃げられないのです。職場を放棄して、植え込みで寝るわけにもいかないのです。
 金光新聞ですから、ご用の中心は原稿依頼や取材です。依頼は電話でできますが、最も困ったのは、取材です。もともと人見知りな上、信心のこともよく分からないのに、その信心について話を聞かなければいけないのです。
 当時、こんな取材企画がありました。ご霊地に参拝する信者さんを、誰でもいいからつかまえて、話を聞いて記事にするのです。私も順番が与えられ、大きいカメラを首からぶら下げて、ご本部のお広前に詰めました。「あの人が話しかけやすいかな。この人かな」。考えるだけで、なかなか足が前へ出ません。
 こちらがおどおど話しかけるので、向こうも何事かと思うのでしょう。緊張感が伝わると、相手も身構えてしまい、じっくり話も聞けません。
 そんなことを繰り返していると、ある時、金光新聞の電話が鳴ったそうです。
 「おい、新聞の若いのが、何か思い詰めて、ここのところ毎日お広前にお参りしているぞ。なんか悩みがあるんやろうから、何とかしてやったらどうか」
 まさに、そんな感じだったのだと思います。
 しかし、「受ける」と決めたのです。必死で取材を繰り返し、記事にしていきました。
 他の記者には、話し上手な方も多くいます。しかし、自分は話上手ではないし、信心のこともよく分からない。となると、できることは、ひたすらじっくり聞くことです。これなら、自分にもできるのです。私は、「聞く」ことに焦点を定めました。そのうちに、だんだんと自分なりのコツがつかめ、取材が苦手ではなくなっていったのです。
 この「聞く」ということを徹底的にしたおかげで、今、それが私のご用の上で、大変力になっています。じっくり「聞く」修行をさせてもらったことにより、お結界で一人の方から数時間話を聞くこともありますが、それほど疲れません。これはまさに、「受ける」稽古から生まれたものだと思います。
 上司の言葉は、お取次の言葉でした。神様は将来、私をお道のご用にと、思ってくださっていたのでしょう。ところが、ふらふらしている私を見て、「これでは先が思いやられる。しっかりこの人間に、力を付けてやらねば」と願いを掛け、「受けていきなさい」という教えを下さり、育ててくださったのだと思います。今になって、その神様の温かい親心がしみじみ思われ、ありがたい気持ちが湧き上がってきます。
 「神様は、氏子を救い助けてやろうとこそ思うてござれ、このほかには何もないのじゃから、氏子の身の上にけっして無駄(むだ)事はなされはせぬぞ。ご信心しておるがよい。みな末のおかげになるぞ」という教えが私は好きなのですが、まさにこの教えどおりの経験をさせていただいたのだと思います。

不信心者ほど神はかわいい
 金光新聞で10年間ご用をさせていただいた後、家族で大阪の教会に帰ってきました。
 ここで、神様はさらに、私に大切な体験をさせてくださいました。
 当時、大阪の町は、あちこちでホームレスが増えていました。教会の近所の公園にも、薄暗い林の中にブルーシートのテント村ができていて、30人ぐらいの方が住んでいました。支援活動をされている先生に勧められて、私は古毛布を持ってテント村へ行きました。
 一軒一軒回ったのですが、皆さんとても喜んでくれました。中には失業中の親子がいて、これは大変なことだと実感しました。
 それから、月に1回差し入れを持って行くことを決めました。おにぎり、カレーライス、ちらし寿司など、妻が作ってくれたものを持って行きました。
 「兄ちゃん、その服、たまには洗えよ」。ある時、おじさんに言われました。確かにそのアーミー仕様の緑のジャケットは、数年洗わずに着ていました。負けずに、「おっちゃんもやで」と言いたかったのですが、小心者の私は言えませんでした。教会に帰って早速、ジャケットを洗濯機の中に入れたのは言うまでもありません。だんだんおじさんたちと仲良くなりました。
 しばらくすると、新しいテントができていました。聞くと、その人は、元々腕のいい技術者だったそうですが、ギャンブルにはまってお金を使い込み、家族に迷惑を掛け、家を出たということです。その人がなぜか、私を気に入ってくれました。
 ある時、テントの中で顔をしかめておられましたので、尋ねると、昔から持病の胃痛があり、入院したこともあるほどで、それが再発したとのことでした。水を飲んでも、口からピューッと飛び出るそうです。
 「○○さん、私は今から神様を拝みます。この神様は天地の神様で、私ら人間の大きな親であり、何とか私たちを助けたいと思ってはるんです。その神様に○○さんの胃の痛みが治まるように拝みます」
 そう言って、テント前の地べたで神様を拝みました。そして、御神米を取り出し、「これは祈りのこもったお米です。どうぞ治りますようにと拝みながら、この御神米を食べてください」と渡しました。
 数日後、気になってテントを訪ねると、○○さんが中におられました。見ると、テント内に段ボールの箱が置かれ、そこに御神米が立ててあります。
 「兄ちゃんが拝んでくれて、よくなったんや。これまで医者に行っても、薬を飲んでも効かんかったのにな。ありがとう」
 笑顔のおじさんを見て、私はホッとしました。そして思ったのです。これが神様なんだと。
 それまでの私の頭の中では、おぼろげながら、「一生懸命信心をすれば、おかげを頂けるんだ」という思いがありました。ところが、このおじさんは、別に一生懸命信心しているわけではありません。それなのに、一緒に拝んだだけで、すぐに胃痛が治ったのです。
 教えにある、「不信心者ほど神はかわいい」とはこのことかと思いました。「これほどに、この神様は情け深い神様なんだ。信心していようが、いまいが、どこまでも氏子がかわいい神様なんだ」と思い、感激しながら、教会までの帰路、ペダルをこぎました。

ご無礼ということ
 こうして私は、親神様と出会わせていただきました。
 現在、教会でのご用や、金光教放送センターでラジオ放送制作のご用を頂いています。また、2年前からは、一般の高校内で、中退を少なくするための「高校生居場所カフェ」のスタッフにお使いいただいています。日々、さまざまなことが金光教教師としての勉強になっています。
 まだ何ほどのこともできていませんが、あの事務所の椅子で寝ていたころの自分を思うと、「よくぞ、神様が辛抱強く育ててくださったものだ」と、ため息が出ます。そして、出会わせていただいた多くの方々、そしてその出会いを作ってくださった神様に、心の底から、しみじみとお礼を申さずにはいられないのです。
 次は、この親神様を一人でも多くの方に伝える番です。冒頭の参拝者もその一人であり、今、一歩ずつ歩みを進めているところです。
 ある時、知り合いの先生がこういう話をされていました。
 「教えの中に、『人間のことじゃから、どんなことで知らず知らずにご無礼お粗末をしておらぬとは限らぬから、とにかくお許しを願っておすがりすることじゃ』とあります。礼というのは昔は禮と書いた。つまり、心の豊かさを示していないことが無礼ということなんです」
 神様に日々お育ていただいて、おかげを頂いているのに、自分はどれだけ心を豊かにできているだろうか。温かみのある、広やかな心持ちができているだろうか。神様がいてくださる安心感を、どれほど感じられているだろうか。
 ご無礼を神様におわびしながら、心を豊かにし、その心を使って一人でも多くの方に、親神様との出会いを頂いてもらいたいと、こつこつ積み重ねている毎日です。

(2017/7)

   



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