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金光教報『天地』 10月号 神人あいよかけよの生活運動


生きた神様におすがりして

 西中国教務センター主催運動信奉者集会(広島県西部教会連合会)で行われた佐藤 剛志 先生(鳥取・根雨)の講話を紹介いたします。


一人でも信者がいるなら
 私は、平和記念公園のすぐ近くの広島教会で生まれました。6年前に根雨教会に後継に入らせていただきました。教会で御用をさせてもらう上で、自分の信心の土台になっていることがあります。
 それは、71年前の8月に世界で初めて原子爆弾が広島に投下され、爆心地から約1.5キロメートルにあった広島教会は全壊となり、当時、御用をなさっていた二宮文子先生にはお子さんがおられず、後継に入ったのが私の祖父母でした。
 当時は1歳の伯母がいて、祖父は30歳でした。原爆によって二宮先生は教会のお広前でご祈念している姿のまま、焼け死んでおられたそうです。祖母と伯母は原爆ドームのすぐ近くの床屋さんにいたため、建物は吹き飛ばされたけれども、命は助かりました。祖父も軍隊の任務で市内の建物の中で作業していたので何とか命を助けられました。
 一時は祖父の里になる芸備教会に家族で避難します。お広前には初代教会長・佐藤範雄先生の奥さまである照先生が座っておられて、「こういうことで命からがら戻ってきました」と申すと、照先生は祖父に、「一人の信者さんでも生き残っておるであろう。一人でもあればその氏子のためにも、願い礼場所である広前は一時も早くご復興をさせていただかねばならん。また、あれだけ多くの御霊(みたま)ができたのであるから、御霊祭りを放っておくことはできまいが。早く行け」というものでした。
 祖父はとまどいながらも、「これはきっと神様のお言葉に違いない。自分には知恵も財産も、まして信心もない。何もない自分に何ができるであろうかと思ったが、あの時、自分と同じように傷を負った者同士、共に泣き、共に苦しみ、共に励まし合い、共に生きていくことならできるのではないか。その中で信心の助かりを頂いて、それでお役に立つことができればそれでいいんじゃないか」と思ったと手記に書いています。
 祖父は9月3日の夜に焼け野原に戻ってきました。けれども、雨露をしのぐ物は何もありません。教会の瓦 礫(がれき)の上で寝転がっていると、目に飛び込んできたのは満天の星空だったそうです。そして、その時に心に湧き上がってきたのが、「ああ、天地は生きている。われも共に生きん。という思いが込み上げ、明日からのご復興の力を頂いた」との思いで、そこから御用が始まりました。それが今日の広島教会になっているわけです。
 祖父母がそのような極限の状況の中で、どのように神様を頂いていたのか。それは、「あの時、神様は、私たち人間と一緒に原爆に遭われ、私たち人間と一緒に傷つき、泣き、苦しみ、そして私たちと一緒に立ち上がろうとしてくださった」と伝えています。このお道の神様である天地金乃神様は、私たち氏子の難儀に寄り添い、苦楽を共にして、何があっても私たち氏子と生きていきたいと言ってくださる、生きた神様ということを伝えてくれています。この「生きた神様におすがりする」ということが、今の私の大きな力になっています。

胸に迫った二つの言葉
 私は根雨教会で御用させていただくようになって、今年で6年が経ちました。先代の谷本忠光先生が亡くなられた後を、奥さまが教会長をされていましたが、ずっと病院と施設におられて、教会には常在の教師が誰もいませんでした。日常のお広前の働きがまったくない状態が続く中、年に3回のご大祭を親教会である米子教会の先生方と、近隣の先生方が懸命に仕え続けてくださっていました。そんな中で私たち家族がご縁を頂きました。
 教会を閉めるしかないという中で、ただ一人、毎日教会にお参りをして、ご祈念をされ、お掃除をされ続けたおばあさんがおられました。いつ来るかも分からない先生をずっと待ち続けておられたのです。私はそのおばあさんの話を聞いた時に、「この方のために行きたい。これ以上寂しいお参りをさせてはいけない」と思いました。それと、祖父が照先生に言われた「一人の信者さんのために」「御霊祭りを放っておけまいが」という二つの言葉が胸に迫ってきました。
 そう言えば聞こえはいいのですが、正直に言えば、妻と3歳の娘がいましたから、「やっていけるんだろうか」という心配もありました。まだ根雨に行く決心がつかない頃、当時、私たち家族は芸備教会で修行していました。ある日、親先生から「ちょっと届け物をしてもらいたい」と言われて、夜にご本部にお参りさせてもらいました。用事を済ませ、お広前でご祈念をし、教祖様の奥城で「後継の話をどうさせてもらうのがいいんでしょうか」と訴えるようにご祈念させてもらいました。そうすると、初めての経験でしたが、周りの音がぴたっと止まって、二つの言葉が心に響きました。それは、「朝寝はせぬがいい」「おかげは神が授ける」という言葉でした。
 もっと驚いたのは、私は「後継の話を受けるか、お断りをさせてもらうか」という思いで訴えたのですが、先の二つの言葉が響いた時に、私の中に、「ああ、神様、金光様はもう御用の態勢に入っておられる」と思え、心が温かくなりました。そして、芸備教会に飛んで帰って、家族に事の次第を話して、「根雨に行かせてもらおう」という決心がついたのです。

根雨の三社参り
 根雨に来させてもらってひと月が経った頃のことです。地域の氏神様を祀まつっている根雨神社の三大祭りの一つに祇園祭りというものがあります。その前夜のお祭りにお参りさせていただいて、初めて宮司さんにごあいさつをさせていただきました。その時に、「金光教祖は氏神様を大切にしていました。また祇園様も手厚く信仰していました。どうかこれからもお参りさせてください」と言わせてもらいました。
 後日、地域の寄り合いがあり、その時にある年配の男性が声をかけてこられました。その方は唐突に、「根雨には金光さん以外にも宗教はあります。私はそれぞれに勝手に信仰されることは何にも思いませんが、佐藤さんがこの前宮司さんに話していることを横でお聞きし、ご自身の信仰がある中で、地元の氏神様を立ててくださったことが本当にうれしかったんです」と言われました。
 私は「聞かれていたのか」と驚いたのですが、実は、その方は根雨神社の氏子総代さんで、私の知らないところで地域の一件一件を回られて、「金光さんをしっかり受け入れていかにゃいけんぞ」と言ってくださったそうです。それから2年後には、祇園祭りのご神事で小学1年生の長女が吉備舞を奉納させてもらうようになりました。
 根雨には昔からの風習で、三社参りというのがあり、地元の人はまず、根雨神社にお参りされます。次に、金光教に来られます。最後に出雲大社教にお参りするのですが、根雨にはいろんな宗教がありますが、その三社の中に金光教を入れてくださっていることに驚き、初代の先生をはじめ、歴代の先生方の並々ならないご苦労があって、それが形として残っていることを感じました。ただ、私たちはそんなことまったく知らずにこちらに来たので、初めて迎えた新年に人がぞろぞろ来られるから、「どうしたんじゃろうか」と思いましたが、翌年からお神酒を頂いてもらい、み教えを書いた短冊を配らせてもらって、毎年少しずつ工夫をしながら、皆さんに喜んでいただいています。
 また、100年以上前からの地域の言い伝えに、「家を建てるときや土地、水回りを触るときは、金光さんに拝んでもらえ」というものがあります。最近はリフォームが多いのですが、やはり拝み信心が強い土地柄で、来させてもらった当初は、このお道は自分の信心を育てていくものだと教え込まれていますから、「俺は拝み屋じゃないぞ」という反発もありました。けれども、その思いが地域の方と距離を生むこともあって、いろんな失敗をしてきました。そのおかげで、「拝んでくれ」と言ってくる人は皆さん真剣で、本当に心配されてのことだと分からせてもらいました。
 今は参ってきた方の「拝んでください」という思いを、わが事のように思わせてもらい、「それは大変でしたね」と寄り添うようにしています。そして、この根雨で、お道を立てて拝み屋のプロになろうと思っています。

神様の働きどこまでも
 平成22年10月22日、私たちが根雨教会に御用に来させていただいて4ヶ月が経った頃、こういう夢を見ました。それは、ご本部にお参りして金光様にお届けをしている夢でしたが、私が何か申し上げようとした時に、金光様がこちらを向かれて、こうおっしゃいました。
 「いろいろあるじゃろうけど、今はなあ、目新しいことはせず、落ち葉を拾わせていただきなさい。あんたたちのことはよう分かっとるから」
 そのようにお言葉をかけてくださり、涙を流してくださいました。実はその頃の私は、根雨での御用が始まったものの、4ヶ月が経ち、ご信徒もほとんどおられず、焦り始めていた頃でした。このままで本当にいいのだろうか。もっと人が集まるようにいろんなことをした方がいいんじゃないか。そう思い始めていたのです。そんな最中に金光様が夢に出て来てくださいました。
 私はこの夢を、落ち葉というのは何かしら教会に以前ご縁を頂いた人たちのこと、また、その子孫や縁のある方たちのことで、いわゆるご縁を大切にしていきなさいということだと頂いています。そのことがあって、私は覚悟を決めました。自分の知恵や小手先でああしよう、こうしよう、ということはせず、神様がお引き寄せになられる方々をしっかりとお取次させていただき、その方と一緒に信心させていただいて、おかげを受けていきたいと思いました。
 それから少しして、あるご婦人が友人を連れてお参りに来られました。このご婦人は信者さんではありません。20年ほど前に家の普請で一度だけお参りに来られたことがあり、連れて来られた友人は、ご主人が病気になられたことで、友人であるご婦人に相談をされて教会を思い出し、一緒にお参りして来られました。そのご友人はお結界で、「主人を亡くしたら私は生きていけません」と涙を流されました。それで一緒に神様を拝んで、私はこのように言わせてもらいました。
 「今、神様にようお願いしました。ところで、あなた方はどう思っておられるか分かりませんが、神様はあなたと一緒におかげを頂きたいと言っておられます。あなたの難儀に飛び込んで、一緒に生きたいと言ってくださる、この神様に本気でおすがりさせてもらいませんか。必ずおかげが頂けます」
 ご主人の病気は末期がんです。私がそんなこと言えるわけもないんですが、実はこの方がお参りされる前から、神様がこの方を助けたいという思いを分からせてもらえる出来事がありました。
 それは、3日前に夢を見て、その夢の中で初めて見るご婦人が教会にお参りになられ、私はご祈念しているその方の顔をのぞき込みながら、初めての方なのに「○○さん、ようお参りでした」と、フルネームを口走ったんです。そうすると、その方の顔がみるみる私の知人の顔に変わっていくという夢でしたが、実はその時に口走った名前がまさに、このご婦人と同じ名前だったのです。
 この方は事情があって夫婦別姓を名乗っておられます。顔が変わった私の知人も、実は夫婦別姓で、私が知っている夫婦別姓はこの方だけなんです。実際にお参りされた時にはまったく夢のことは思い出しませんでした。けれども、涙ながらにお届けをされるその方を見て、「本当に何とかしてあげたい。この方のお役に立てますように」と、私なりに一生懸命、神様にご祈念させてもらっていた時に、その夢を思い出したのです。それで、「ああ、これは何とかしてやりたいと、神様がお呼びになった方なんだな」と分からされました。そういうことがあったから、私は「神様はあなたと一緒におかげを頂きたいと言っておられますよ」とお伝えさせてもらえました。
 その後、ご主人は宣告された余命をとうに過ぎて、間もなく退院されました。ご夫婦で毎日元気に畑仕事を続けておられて、医師をはじめ、親族もご近所の方も不思議に思っておられました。実際にその方の元気な姿を見られて、「私もおかげを頂きたい」と、その集落からお参りになられる方もありました。
 そして、先日ご自宅で眠るように亡くなられました。お届けの時に涙を流しながら「主人が亡くなったら自分は生きていけません」と言われていましたから、ご婦人の心境が心配でしたが、その方を連れてきてくださった方が、その後、教会に来られて、「○○さんはおかげを頂いてます。ないと言われた命を神様が延ばしてくださり、しかも痛いかゆいということなく元気な姿で、神様がくださった時間に○○さん夫婦は最期までよい思い出を作ることができました。今、彼女は悲しみを抱えながらも、その思い出に生きる力を頂いて、毎日元気に生きています。『また今度も教会に連れて行ってね』と言ってます」と教えてくださいました。
 実は驚いたのはこの後のことです。○○さんを連れてきてくださったこの方が話を始められ、「実は私も20年前、末期のがんと宣告されましたが、その後、突然がんが消えたんです。まったく信心気のなかった私がなぜかその時に思ったのは、神様に助けてもらったと感じました。けれども、どこの神様かも分からず、どこに行ったら自分を助けてくださった神様にお礼が言えるのか分からないまま、この20年間、ただ命を助けてもらったご恩だけを忘れないようにしてきました。ところが、このたび友人を連れて教会に来て話を聞かせてもらう中で、ああ、私が探していた神様はここにおられたと思いました」と言われて、この方のお参りが始まりました。つまり、20年前に一度だけお参りされ、教会までの「道案内」として友人を連れて来ただけのご婦人の方も神様と出会われたのです。私は今、教会御用をとおして、このような神様のお働きを日々感じています。

後から知った御霊の働き
 根雨教会へ布教に出させてもらった一番の理由が、「一人のご信者さんのために」、また、「御霊祭りを放っておけまいが」という願いを受けて焼け野原に向かった祖父たちのその姿を見習いたいという思いでした。そして、その戦後の原爆荒野で祖父たちが出会った生きた神様におすがりする信心。その信心が約70年という年月を超えて、実際に私と根雨教会のお広前をつなげてくださった事実にも出会わせてもらいました。
 それは被爆から1年が経った昭和21年に、祖父がいよいよ仮広前の建設に取り掛かろうとしていた時のこと、最初は2畳のうさぎ小屋のようなお広前だったそうです。それから仮広前のようなものを建てさせてもらいたいと願いを立てて取り組もうとしていた時に、祖父の前に一人の青年が現れました。そして、祖父と一緒に命がけの仮広前建築の奉仕に尽力してくださいました。その方こそが根雨教会の先代教会長・谷本忠光先生だったのです。
 私はそのことを根雨に来てから知りました。広島教会の古いご祈念帳に書かれてあったのです。広島教会の恩人でもある谷本先生のご奉仕された根雨教会に私たち家族がご縁を頂くことになったのは、偶然という言葉では片付けられないものを感じています。そして、神様、ご霊神様の根雨のお広前に込められた、ただならぬ祈りを感じながら、今ここに「生きた神様」にご信心してこそおかげがあるんだということを、多くの方に伝えたい一心で、この身、この心を神様に向けて、もがきながらですが、現在御用にお使いいただいているところです。

(2017/10)

   



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