信心運動

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教報天地 5月号 神人あいよかけよの生活運動

「神人あいよかけよの生活運動」の「願い」は、教祖様に始まるこの道の信心や助かりの筋道を表現したものです。その4行目にある「神心となって 人を祈り 助け 導き」に関わって、山下輝信財務部長が月例祭祭典後の教話で語った内容を紹介します。

「宗教が憎い」という話

 70年前のことですが、ある家族が朝鮮に渡り、大邱(てぐ)という所で旅館業を始めて成功しました。その家の二男が地元の中学を出て、日本の大学に進学しましたが、時を同じくして中学に入っていた弟さんが肺結核にかかりました。
 その方が日本から戻ると、弟さんは毎朝、水をかぶっていました。「ばかなことをするな」と言うと、「神様のお告げだから」と答えました。病気になって、ある宗教に参るようになり、「水をかぶって修行せよ」と言われたのです。
 それからも弟さんは水をかぶり続け、まもなく亡くなってしまいました。その方は、「弟を殺した宗教が憎い。自分は生涯、信仰はしない」と心に決めました。
 その後、大学を卒業して兵隊に召集され、戦後、郷里の福岡に引き揚げました。そこで縁あって結婚した相手が、私が在籍する教会で信徒総代をしていた方の長女でした。
 数年後、その方は跡継ぎとして養子に入ることになりました。信徒総代をしている家なので、家族みんなが熱心に教会にお参りします。その方は信仰を嫌っていますので、内心は気に入らない。奧さんには、「信心を止めろとは言わないが、決してのめり込むな」と言ったそうです。


 教会長である私の父は、その方と同い年でした。「何とかご神縁を頂いてほしい」と思った父は、「裏口から入ってもいいから、酒でも飲みに来い」と誘ったそうです。本人は嫌々だったかもしれませんが、時々訪ねてくるようになりました。それが何年も続き、その間、父はいっさい信心の話はしなかったようです。
 後日、その方が言われたのは、「信心の話が一言でも出たら、教会には近づかなかっただろう」ということでした。やがてその方も、「この宗教は違う」という思いを持つようになりました。そして、厄年である42歳の年に、はじめて教会の門をくぐってお参りされました。6年後、私の父が亡くなってからも、その方は信心を続けられました。
 私は、信心が伝わるには2つあると思います。1つは、み教えを聞いたり、お道の本を読んで、お道が伝わるということです。もう1つは、信心する人に触れるなかで、「あの人のようになりたい」「あの人が参っている教会ならば」ということで、お道が伝わるということです。この方の場合は、私の父や養子先のご家族の信心に触れ、「何かが違う」と思われてお参りするようになったのです。
 その後、その方は信徒総代になられ、70代になって心臓の手術をされました。以来、1日に2度、教会にお参りされるようになりました。「もったいないおかげを頂き、毎日お礼を申し上げています。家族や信者さんのことをお願いせずにおれません」と言われ、晩年には、「うちは仏教徒ですが、金光教に改式させていただきたい」と言われ、おかげを頂かれました。

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 「神も仏もあるものか」

 この方の長女が、学校を出て銀行に勤め、同じ職場の人と結婚しました。ご主人は、少年時代の半年間に、父親と祖父母の三人を亡くしています。家族からは、「本人は『神も仏もあるものか』という思いを持っています。信心に導くのは難しいので、自分たちが信心の手本になるようにさせていただきます」というお届けがありました。
 結婚して数年後に子どもさんができ、同じ時期に、この方はアメリカで二か月間の研修を受ける試験に合格しました。その時、はじめて教会に参ってこられました。そして、「妻や両親をずっと見てきて、こういう信心ならしてみたいと思った」と言われました。この方の場合も、奥さんの両親は信心の話はいっさいされず、「お参りしよう」とも言われませんでした。ただ、日々の生活で信心を示され、この方もそれを見て、「お参りしたい」と思われたのです。
 その時、私が「アメリカのどこに行かれますか」と尋ねますと、シアトルということでした。「そこにも教会がありますので、お参りされたらどうですか」と申しますと、素直にシアトル教会にお参りされ、そこで先生の人柄に触れて、お取次を頂かれるようになりました。
 その後も、転勤する先々に教会があればお参りされ、先生の人柄に触れて、さらに信心に魅力を感じられるようになりました。そして、今年の春、「うちも改式させていただきたい」と言われ、おかげを頂かれました。教えを語らずとも、人と人との触れ合いのなかから、人の生き方が自ずと教えを発する世界もあるのだと思います。


 ある先師が、来る日も来る日も同じ話をされたということです。修行生も信者さんたちも、「またあのお話か」と思うぐらいに、同じお話ばかりをされたそうです。
 ある時、先生が皆を前にして、「いつも同じ話をすると思っているだろうが、昨日の私と今日の私は違う」と言われたそうです。それはまさしく、先生のご信心が日々進展していたということです。
 私たちも、「信心させていただいたら、これだけ変わらせていただきました」と言えるほどのおかげを受ければ、ありがたい世界が生まれてきます。共々に信心を進め、ありがたい思いで神様のお役に立たせていただきたいと存じます。

(2012/05)

   






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