信心運動

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教報天地 8月号 神人あいよかけよの生活運動

「教会で修行したい」

 今春、教会で天地金乃神大祭を仕えさせていただき、信者さんたちと後片付けをしていると、1人の青年がお結界に来て、突然、「もう姉と縁を切ります」と申しました。聞くと、せっかく教会にお参りして、久しぶりに姉弟で会ったのに、たわいもないことで喧嘩をしたのです。

 黙って聞いていると、さらに話が飛んで、「親子の縁を切ります」とまで言い出しました。これはもう何を言ってもだめだと思い、「今日はお帰りなさい」と申しました。

 信者さんたちもみんな帰られた後、またその青年が参ってきました。手には花を持っていました。「今日は母の日なので、奥様に花を買ってきました」と申しました。「ありがとう」と頂戴し、彼の気持ちも落ち着いた様子なので、「あのなあ、せっかくご大祭にお参りして、ありがたい心で帰ればおかげになるのに、せっかく頂いたおかげをまき散らして帰るようなものだ。腹が立った時に言った言葉は、人を傷つけるし、言われたほうは忘れない。これからは腹が立ったら、自分の気持ちが落ち着くまで、口を開かないようにしなさい」と申しました。彼も申し訳なさそうに、「はい」と答えました。


 彼は診療放射線技師です。病院では患者さんから「先生」と呼ばれています。国家試験に合格するまでも、その後も、ずいぶんと神様にご苦労をおかけしています。

 医療技術専門学校に入るため予備校に通っていた頃、予備校の先生から「君は短気で身を滅ぼすよ」と言われたそうで、それを気にして、「先生、親教会で修行させてください」と言ってきました。「親教会は、金光教の教師になろうとする人が修行する所だよ。でも、せっかくの思いだから、親先生にお聞きしてみよう」と申しました。親先生に、「こういう青年がいますが、お預かりいただけますでしょうか」とお願いすると、快くお許しくださり、20日間、親教会で修行させていただきました。おかげでその年、専門学校に合格し、3年間勉強して、いよいよ国家試験を受けることになりました。

 ところが、試験が行われるその前日に、本人が風邪をひいてしまいました。病院からもらった薬も効かず、このままでは試験どころではないという時、教会にお参りして、お広前で一生懸命お願いしました。すると、ふと、「駅前の商店街の薬局で薬を買ってみよう」という思いが、わき起こってきたそうです。

 さっそく薬局に行き、渡された薬を飲みました。すると、翌日には、すっかり良くなりました。「祈れ薬れにすれば、おかげも早い」というみ教えがありますが、神様に一生懸命おすがりしたことで、おかげをくださったのです。試験にも合格することができました。

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 マグロがカンパチに

 その年の暮れ、教会の感謝祭をお仕えした後、その青年が「先生、正月にカンパチをお供えさせていただきます」と申しました。普段はそのようなことを言いませんので、「どうした」と尋ねました。

 すると、「神様に、『国家試験に合格したら、マグロをお供えします』とお願いしたんです」と言います。「そうか。マグロだったら、まあ1本100万円か」と言いますと、「いや、50万円ぐらいであるそうです。安いのになったら30万円です」と言います。そう言いながら、本当は「そこを何とかカンパチでお願いします」ということでした。

 それを聞いて、教典の尋求教語録にある「この大願成就のおかげをくだされば、金の鳥居を差し上げます、絹のお幟をお供え申します、と言うたりする者があるが、さあ、おかげを受けると、金の鳥居が小さななまこ(トタン)の鳥居になったり、絹のお幟が紙になったりするのが、だんだんある。神様はそんな物をもらおうとは思わっしゃらぬが、もったいないことじゃ」というみ教えを思い出しました。


 「これは青年を笑うわけにはいかないな」と、その時思いました。考えてみますと、私どもはいざという時、無理なお願いもしますし、そんな時には、いちいち「金の鳥居をお供えします」と神様にお約束はしていませんが、おかげを頂いて、「ああ、よかった」だけでは、神様の願いから外れた生き方になってしまいます。金の鳥居が、ブリキの鳥居になってしまうのです。神様からご覧になって、私たちは助けがいのあるお互いなのか。天地のお恵みのなかで、生かしがいのある氏子なのか、ということです。
 おかげには神様の願いが込められているはずです。その願いにまったく沿う生き方にならない時に、この青年を笑うわけにはいかないなと思ったのです。

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 神様が喜ばれる生き方

 私どもは日々、神様にさまざまなことをお願いし、広大なおかげを頂いていますが、自分の願いは聞いてもらいたいけれど、神様の願いには思いが及ばない。それを「運動」に照らして言えば、常に神様を離さないようにお取次を願い、頂き、おすがりしていく。天地の親神様のご恩徳のなかに生かされ、親神様がお差し向けになった生神金光大神取次のお働きをもって、さまざまなおかげを頂いているお互いなのです。

 そのお互いが、神様のおかげに目覚め、お礼と喜びの生活を深めていくなかで、困っている人の話を聞いたり、体を使ってご用したり、神様のご恩に報いようとする生き方はできます。そのように神様がお喜びくださる生き方になるところに、「神人の道」は生まれてくるのです。

(2012/08)

   






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