神人あいよかけよの生活運動

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教報天地 1月号 神人あいよかけよの生活運動

このたびの「運動」とは

 2012年8月に開催された「運動」に関する会議で、発題を受けて協議された内容を、2回に分けて紹介いたします。

● 昭和24年から「御取次成就信心生活運動」が始まり、焦点を絞った形で継承されてきたが、それは教会で信心の稽古がしっかりなされてきたことを基盤としての「運動」であった。その基盤となっている信心がより明確にならなければ、そのうえに何も積み重なっていかないのではないか。
 実践ということから言えば、このたびの「運動」は「神心となって 人を祈り 助け 導き」とも言えるが、そのためには、「御取次を願い 頂き」「神のおかげにめざめ」「お礼と喜びの生活をすすめ」という信心が生き生きとしていなければ、次の一歩が生まれない。

● これまではおかげを頂くための信心であり、天地のなかの人間という眼差しが抜け落ちて、人に現れる事柄をとおしてしか神様を見ず、信心を自分勝手に捉え違いをしてきた。
 それに比べて先人たちは、神様のお働きに自分をいかに合わせていくかを、信心として取り組まれた。今日、金光大神の広大な信心の道筋が示され、信心そのものが「運動」と押さえられたことは画期的なことだ。

● 「運動」の「願い」が示された時、「これは金光大神様の信心だ」と思った。それは金光大神の信心を際やかにまとめたものであり、金光大神ほどお取次を願い、頂かれた方はいない。
 金光大神が、神のおかげはどのようなもので、どのようにお礼と喜びの生活をすすめ、お結界で神心となって、人を祈り、助け、導かれたのか。そうした中身をもって、「神人の道」が打ち立てられなければならない。このたびの「願い」は、これまで信心としてきたものが、金光大神の信心になっているのかどうか。立教以来百五十余年、金光教教典が刊行されて三十年たった今、「運動」という形で金光大神の信心を求め現そうとしている。

● どのように神様との縦軸を再構築していくかという時、すでに各教会の初代の教説や、先師の信心の歩みのなかで、さまざまな言葉が語られている。
 例えば、「人を軽く見ない、人に恩をきせない、人を利用しない、人をあてにしない、人を責めない」という教えは、信心実践のあり方を示したものであり、私たちに神様を意識させ、縦軸を再構築させる言葉だと、あらためて感じる。そうした言葉を掘り起こし、再確認することが大切だ。

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 「御取次を願い 頂き」に関わって

● 教師の間でも、一行目の「御取次を願い 頂き」がどういうことなのかという話が出る。教師自らがお取次を願っていなければ、神様を取次ぎようがない。

● 人々が求めている救いとは、具体的な問題から解放されることだ。「おかげを授け、理解申して聞かせ」と教えられているように、お取次からおかげが生まれる実感がなければ、「理解申して聞かせ」というところに力がなくなってしまう。
 祈念力で人が助かるということもあるが、徳も力もないけれども、信奉者と共に懸命に神様に願うことで、神様が放っておかれるはずがないという思いも大切だ。

● どうなれば、人が助かったと言えるのか。難儀や問題がなくなることである一方、神様のお働き、天地のご恩徳を分からせていただくことが中心軸ではないか。
 貧病争など個別の難儀にどう対応していくかも含み込んで、「信心すればおかげになります」という筋道が、「運動」をとおして明らかになった。信奉者のニーズに振り回されるのではなく、たとえ痛みはそのままでも、神様に「ありがとうございます」と手を合わせる姿が助かりそのものでもある。

● 「運動」が信心になり、信心が結果として「運動」になるというアプローチが必要であり、そのかぎとなるのはお取次が成就するかどうかだ。佐藤光俊前教務総長の「神が助かる」という問いかけは、「人が助かることが、そのまま神様の助かりである」ということに流れてしまった信心への問題意識から、教祖様に始まる本来の信心を立て直そうとされたのではないか。

● 教会にお参りされる方は、目前の問題に何とかおかげを頂きたいと思っている。ただ、目指すのはここだという中心を、取次者は常に押さえておかなければならない。
 教師自身が、お取次をどう頂き、どれほど神様と自分との関係を構築しているか。「信心はせんでもおかげはやってある」という神様の思いを、どれだけ腹入れできているか。さらには、今ある自分の元は何か、このお道に生きていることをどれほどの重みでとらえているか。それを常に頂き直していかれたのが、教祖様であり、直信先覚であった。

(2013/01)


   



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