信心運動

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教報天地 12月号 神人あいよかけよの生活運動

「願い」と「頂く」の間にあるもの

 本年九月十日、十一日に本部教庁で開催された「運動」研修会で、菊川信生師(熊本・江田)が行った発題の内容を抜粋して紹介する。

 「神人あいよかけよの生活運動」の発足前、本部から各教会にポスターが配布されました。その時、教会長である父が、「願い」の文言を見て、「当たり前のことを始めるのか」と言いました。それで、あらためて「願い」の文言を読んだ時、「これは本教の信心を進める者にとって、願われるべき姿であり、信心をすれば当然こうなっていくべき姿を示している」と思いました。そして、その中身を理解するため、先覚先師の信心の歩みをたどってみることにしました。
 まずは身近なところで、初代教会長である祖母の信心の歩みをたどってみました。そして、先覚先師それぞれにお道につながる機縁は違っても、その信心の歩みは「願い」の文言に添ったものだという印象を持ちました。
 次に、信者さんたちの信心の歩みを振り返った時、お取次を頂くことで生き方や考え方が変わっていかれたTさん夫婦のことが思い浮かびました。

「心の傷は恨みになる」
 ある日、Tさんに生命保険会社から書類が届きました。「保険から三十万円を貸した」という内容で、ご主人も心当たりがなく、「もしかしたらお母さんが?」と思いました。実は、ご主人のお母さんの勧めで保険に加入し、証書も預けていたからです。
 悩んだ末、実家のお母さんに相談すると、「そのことを教会にお届けしたのか」と言われました。「教会の先生が言われることは分かっている。『親がしたことだから辛抱しなさい』と言われるに違いない」と答えると、「お届けしてみないと分からないではないか」と言われました。実家のお母さんも、二人の夫と死別し、商売もうまくいかず、数々の問題をお取次でおかげを受けてきたという経験があったからです。
 Tさんが教会にお参りしてきました。あらかた事情を聞いて、父が「あんたはどうしたいのか」と問いかけると、「今回は仕方ないが、二度としないように釘(くぎ)を刺します」と言われました。すると父は、「釘を刺すのか。それは痛かろうな。手や足に釘が刺さると跡が残る。心に釘を刺すと、跡が残って恨みという字になる。それでもいいのか」と問いかけました。それでTさんが「やはり私たちが辛抱しないといけないのですか」と言うと、父は、「お母さんの立場に立って考えてみようではないか」と話の向きを変えました。
 お母さんは早くに夫を亡くし、中学生だったご主人を頭に三人の息子を、保険の外交員をしながら女手一つで育てました。「そのお母さんの苦労を考えたことがあるのか。あんたのご主人は、お母さんに大学まで出してもらって、大きな企業に就職し、結婚もして、生活も安定している。それも、お母さんのご苦労あってのことじゃないか。それをどう思っているのか」と話したのです。さらに続けて、「もしかしたら、ご主人の弟さんが経済的に不安定なので、お金が必要だったのかもしれない。あんたたちに言うと反対されるので、黙って借りたのではないか。ご主人は長男だろう。そろそろ年老いたお母さんを抱えるというような立場になれんかなあ」と話したのです。
 それを聞いたTさんは、「今度は主人を連れて参ります。同じ話をもう一度してやってください」と言われ、後日、二人でお参りしてきました。ご主人は、結婚して金光教にご縁を頂かれた人ですが、その時にはじめてお取次を頂き、帰りの車中、「そういう考え方があったのか」とつぶやかれたそうです。そして、夫婦で、子としてのあり方を話し合われたようです。
 その後、ご主人から教会に電話があり、「あした、母と話し合いをしますので、よろしくお願いします」と、お届けがありました。父は、「神様にお願いしながら、お母さんと接するように」と話しました。
 翌日、お母さんに家まで来てもらい、「こういう書類が来たが、心当たりはないか」と問うと、お母さんが真っ青になられたそうです。そして、「やがて満期になる貯金で返すつもりだった」とわびられました。それに対して、Tさん夫婦は、「どうして事前に相談してくれなかったのか」と言い、母親が苦しんでいることに気づかなかったことを、涙ながらにわびたそうです。そして、「これからは何でも相談してほしい」と言うと、日頃から肩ひじ張って生きてきたお母さんが号泣され、「三十万円は必ず返すから」と言われたそうです。
 その時、「お金は返さなくていいから」と言ったのにもかかわらず、後日、返してこられました。「とりあえずは受け取ったのですが」とお届けするTさんに、父は「お母さんの気持ちを考え、ありがたく受け取っておきなさい。別の機会にあらためて返したらいい」と言いました。一か月後、お母さんの誕生日にプレゼントとしてお金を返すと、大変喜ばれたということでした。
 この話から私は、「運動」の「願い」の一行目にある「御取次を願い 頂き」の、「願い」と「頂き」の間にある余白に込められた働きを感じました。それは、取次者が日頃からどういう信心を求めているかが、余白を埋めるかぎになるということです。父はいつも、「人を責める世界に救いはない。人も助からないし、神様も喜ばれない」と言っています。「人間を理解することが大事だ」とも言っています。「人間を理解する」とは、Tさん夫婦の場合、息子に黙ってお金を借りざるをえなかった母親の心情です。その言葉が、Tさん夫婦を納得させる働きを生み出したのです。
 私は、「御取次を願い 頂き」の「頂き」という言葉を、「ご理解を納得する、腑(ふ)に落ちる」と読み替えてもいいと思います。さらに、その余白には、お取次を願う者にあっては、自分の生き方や考え方を振り返り、改まるという働きがあります。Tさんの場合は、夫婦で話し合って、同じ向きで母親に向かうということでした。それは、責める世界からわびる世界へ、理解し支えようとする生き方への転換でした。

お礼と喜びの生活から
 その後、Tさんのご主人が、「家に神様をおまつりしよう」と言い出しました。それは、前々からTさんが願っていたことでした。そして、年に数回、家族そろって宅祭を仕えるようになり、子どもたちに信心を伝えたいと願われるようになりました。
 そういうなかで、ご主人が、自分が勤める工場に入る前に拝礼をして、一日の安全をお願いし、退社する時はお礼を申すことを始められました。また、会社の食堂で、みんな黙って食事を受け取ることを不自然に思い、賄いのおばさんに「ありがとうございます」と、大きな声でお礼を言うようにしました。やがて、ほかの人たちも「ありがとうございます」と言うようになり、雰囲気が変わっていったそうです。「願い」の四行目にある「神心となって 人を祈り」という信心実践につながったのです。
 実は、ご主人には五年前、「願い」の二行目にある「神のおかげにめざめ」られた出来事がありました。自宅でめまいを起こして倒れましたが、すぐに立ち直ったので、翌日はいつもどおり仕事に出かけました。教会のお掃除のご用に来られたTさんが、そのことをお届けされました
 その時、「大したことはなかったようです」と言われたTさんに、お結界にいた母が、「軽く考えないほうがいい。ご主人のお兄さんが脳神経外科の部長をされているのだから、相談してみたら」と促しました。それで検査を受けると、脳動脈瘤(りゅう)が破裂寸前の状態であり、緊急手術でおかげを頂かれました。

一人ひとりを大切にする道
 一か月の療養後、退院して夫婦で教会にお参りされました。その時、父が、神様から生かされて命を頂いていること、そのことへのお礼について話をした後、四代金光様の「生かされて生くるいのちをたいせつに今日も過さん過させ給へ」というお歌を紹介し、「私もこのお歌を大事にさせてもらっている」と話すと、ご主人が紙に書いてほしいと言われ、自宅のご神前に供えて、朝晩、夫婦でご祈念されるようになりました。
 昨年四月、定年退職のお礼のお祭りを自宅でされました。その時、私がご主人に、「結婚してはじめて金光教を知って、どう思われましたか」と尋ねると、「最初の頃は妻に連れられ、嫌々ながらお参りしていましたが、それまでの自分とは違う考え方や生き方を教えていただき、次第に大切に思うようになりました。一人ひとりを大切にする素晴らしい宗教ですね」と言われました。そして、「ぜひ、自分の葬儀は教会でお願いします」と言われたのです。
 先日、ご夫婦でお参りされ、それまでの嘱託勤務から、正式に退職したことをお届けされました。その退職祝いの席で、お母さんから「長い間、ご苦労様でした」と言われ、ご主人も「お母さんにはお世話になりました。ありがとうございました」と、涙ながらにお礼を言われたそうです。
 そのお届けを聞いて、私はあらためて「釘刺し事件」のことを思い出しました。「あの時、お母さんに釘を刺さなくてよかったですね。その時に頂いたお取次が、今も生きて働いていますね」と話すと、あらためてお礼のお届けをされました。

信心を「願い」に照らす
 私は、Tさん夫婦をとおして、それぞれが自分の信心の歩みを「運動」の「願い」に照らし合わせることで、信心の整理ができ、頂いているおかげをより深く自覚することになると感じています。そのなかで、一人ひとりの信心の段階も明らかになっていくと思います。
 Tさん夫婦も、二十数年かかって、いろいろな出来事をとおして、少しずつ神様のおかげに目覚めてきたのです。それとは逆に、願ってすぐにおかげを頂き、生き方が変わっていく人もいます。どちらの場合も、お取次をとおして、おかげを頂いた元を常に確認していく必要があると思います。
 このたびの「運動」では、お取次をさせていただく教師の信心も問われてきます。日頃から信者さんをどう見ているのか、何を大切に思っているのか、どのような信心に取り組んでいるのか、どう神様に向かっているのか。私自身、「運動」をとおして、このことが常に問いかけられているように思っています。

(2013/12)

   



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