神人あいよかけよの生活運動

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金光教報『天地』 5月号 神人あいよかけよの生活運動


親心とおして神心を知る

 高梁教会開設120年の記念冊子に掲載された、小山倉雄師(岡山・高梁)の教話の内容を抜粋して紹介いたします。


神様から頂いている心
 教祖様は親子にかかわる例え話をもって、多くの教えを説いておられます。
 そのなかで、親孝行について『金光教教典』には、「父母に孝行が第一。孝行をすれば末で幸せがよくなる。不孝をすれば末で巡ってくる」と教えておられます。また、「信心心得」には、「神信心のなき人は、親に孝のなきも人の道を知らぬも同じことぞや」とあります。
 しかし、私のように「親孝行したい時には親はなし」という人はどうすればよいのでしょうか。そもそも「孝行」とはどういう意味なのか辞書を引いてみました。すると、「親を敬い、親に尽くすこと」とあります。
 神様は私たちにいろんな心をくださっています。「ありがたい」と思ったら、必ずそれに報いようとする心もあります。教祖様のみ教えに、「氏子らは小さい所に気をつけて、夜分に提灯(ちょうちん)を借りても、手みやげをつけて、大きにありがとうと礼を言って返すが…」とありますが、それが言葉か品物かは別として、恩を感じたら自然とお礼がしたくなるように、孝行は「しなさい」と言われてするものではなく、「したくなる」。そういう心からのものだと思うのです。

教祖様の親孝行
 では、教祖様は親をどのように見ておられたのでしょうか。教祖様は江戸時代の末に、香取家の次男としてお生まれになっています。当時の百姓は、長男ならば田地田畑を譲ってもらえるのですが、それ以外は丁稚(でっち) 奉公か養子に行くしかなかった時代です。
 教祖様のご伝記に「あたりの宮・寺に、いつも源七(教祖様の幼名)を背にして詣でていた。そのために、父の着物は、つねに背にあたるところからやぶれた」というエピソードが載っています。お父さんが背負って参ってくれたということを教祖様がご存じだったのは、たぶん母親から聞かされているのです。母親は教祖様が養子に行くに当たって、「あなたのお父さんはね」と、生まれてから養子に行くまでのことを話され、「これほどに、あなたのことをかわいがったのですよ、愛したのですよ。でも事情があって、あなたを養子に出すのですよ」ということを語っておられたのだと思います。ですから教祖様は、「ああ、それほどに愛してくれていたのか」ということが分かられたのでしょう。
 そうやって語り伝えられたからこそ、「親はありがたい」ということが教祖様の心にぐっと根付いて、「ありがたい親に対して何かをして差し上げたい」とずっと思っておられたのでしょう。
 どういう恩返しをされたかというと、教祖様は、目立つことなくひそかにという方でしたから、新しいわらじを履いて実家に行き、黙って実家にある古いわらじを履いて帰っておられました。それを母親は、帰るのを遠目からずっと見て、ちゃんとたどり着くまで陰ながら見送られていたそうです。そのような親の思いがあるからこそ、教祖様は親を本当に大切にされています。
 教祖様の養父母も、また立派な方でした。一つは、教祖様が養子に入られる時に「私は麦飯が嫌いです」と言われ、それを「分かった」と受けられたことです。当時、白飯は貴重で、麦飯でも食べられるだけいい方でした。麦を米に替えてでも、白飯を準備されていました。一旦約束したら守るという親の心がすごいのです。
 もう一つは、養父は死に先立って、家の名字を「川手」から以前の「赤沢」に変えるよう遺言します。それは、「川手」という村内で由緒のある姓を名乗ることが周囲から快く思われておらず、他村から来た者であればなおさらで、自分が亡くなった後の教祖様のことを考えたうえでのことでした。そういう優しさを持つ養父ですから、教祖様は絶対の信頼をおかれたと思うのです。そういう親に対して「ありがたい」と思えば、当然何かをさせていただこうという気持ちが次第に起きてきます。
 親孝行をしていくと、親の思いが少しずつ分かるようになります。さらにその先には、私たちの本体の親である神様がどう思ってくださっておるのか、ということを感じ取れることができていきます。これが信心です。

わがままを言ってないか
 高梁教会は平成27年に、教会開設120年を迎えます。そこで生まれ育った私は、いろんな紆余曲折(うよきょくせつ)がありましたが、大学を出て学院へ行かせていただき、あらためて金光教についての教えやお話に触れる1年を過ごしました。それから事あるごとに親の思いに心が向くようになりました。
 思い返しますと、小学生の頃は親に言いたい放題でした。特に、「巨人、大鵬、たまご焼き」と言われた頃ですから、グローブが欲しくてたまらないわけです。でも、どれだけ言っても買ってもらえず、しこたま文句を言った記憶があります。ところが、父がある時、ご用で東京へ行ったお土産に買ってきてくれたのです。
 後になってから、その頃、教会は余裕なんか全くなかったことが分かりました。グローブ一つですが、どれだけ工面をしてくれたのか。すぐに買ってやりたくても「辛抱せえ」としか言わず、「今、言うことを聞いてしまうと後々よくない」と、「一緒に泣き泣き辛抱しようなあ」と心の中で思いながら、何も言わずに黙って耐えてくれた親を思うと、今でもありがたいと思うのです。
 そして、考えさせられるのが、「自分が昔、親にわがままを言ったのと同じようなことを神様にしていないだろうか」ということです。「なんで神様は言うことを聞いてくれないのだろうか」と、神様のお心など考えず、わがままを言ってはいないか。自分の都合ばかり考え、子供のようにそれを繰り返していては進歩がないわけです。親の心が分からせていただけたら、親のありがたさが分かります。

「なんも言うなよ」
 19年前、教会開設100年祭を間近に控え、ある先輩教師と、「もう2、3か月で100年のお祭りだ」という話になり、どういう準備をさせてもらったらよいか相談をしました。するとその先生が、「ほんならのう、あんたの教会のお塚(お墓)は遠いんか」と言われるので、「いや、うちから5分ほどの山の裾野にあります」「そうか毎日参れるか」と聞かれます。「そりゃあ参ろうと思えば時間見つけて参れます」と言ったら、「そしたら参れ。でものう、参ってもなんも言うなよ」と言われました。
 「こういうお願いの仕方がよい」と言われるなら、まだ分かりやすいのですが、私はこの「なんも言うなよ」と言われた意味が分かりませんでした。でも、何にも言わなければいいのですから、やること自体は見やすいのです。
 私は先輩に言われたとおり、お参りして拝むだけ拝んで帰っていました。おかげで百年祭は願った以上のおかげを受け、お仕えさせていただいたわけですが、その当時は無事に記念祭が終わったことにほっとするのが先行して、そのことをすっかり忘れていました。
 しかし、あらためてこのことを考えてみますと、親の気持ちそのものだということが分かりました。子供が自分の所を訪ねてきても、何も言わなくても分かるし、いいようにしてやろうとするのが親です。だから「何も言わずに、ただ頭を下げに行きなさい。親様や先祖というのは私たちのために働いてくれているから、あれこれ考えず顔を見せに行きなさい。向こうが心配してくれる」と、先輩は言いたかったのだと思います。
 それは神様も同じだと思います。日々お参りするというのは、一つにはいつも顔を見せていると、顔色の違いが分かります。たまにしか顔を見ないのでは細かな変化までは分からないでしょう。毎日見ていたら顔色が悪いとか、今日はいいことあったのだろうということが分かってきます。
 先輩の話を聞いて、そのことが分かるまでに、私は20年かかりました。けれども、み教えをもとにして歩んでいれば誰でも気づかせていただけるのです。神様に、あるいは親に心を向けていたら、あの時のあの言葉はどういう意味だったのだろうか、何を考えていたのだろうかということが次第に分かってくると思います。

寄り添ってくれる親様
 ただ私たちの願いをかなえてくれるだけが信心ならば、簡単でよいかもしれませんが、それでは本当のおかげや神様のみ心がどういうものかは分かりません。たとえ思い通りにならなくても、神様も教祖様も、「私たちを立ち行かしてやりたい、いいようにしてやりたい」としか思っておられないんですから、やむなく「辛抱していなさい」という状況もあります。「おかげをやりたい。けれども、おまえの言うとおりにするのがよいとは思えない。おまえには今は分かるまいが、いずれはちゃんといいようにしてやる。そのことが分かっているかどうかが大事だぞ」という神様のみ心を知っているかどうかが信心なのです。
 そのために、いつも親と一緒にいる、神様と一緒にいる、そうした心持ちが大切だと思います。「こういうことがありました。神様一緒に喜んでください」「こういうことができました。ありがとうございます」と言って報告することが大切です。おかげを受けても知らん振りでは、孝行とは言えません。いくつになっても「あなたのおかげで、これだけのことができるようになりました」と言える。これが何よりの孝行だと思います。
 今、私は、起きてきたことの報告を足りないながらもさせてもらっています。しかし、親はありがたいことに、私のような者に対して、いつでも手を貸してくださる。足らんところは足してくださる。そういった時に「ありがとうございます」と言えるから、大きな間題もなく今日まで過ごさせていただいていると思います。親と一緒に歩いていることが実感をもって分からせてもらえるのが信心だと頂いています。 

(2015/5)

   



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