神人あいよかけよの生活運動

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金光教報『天地』 11月号 神人あいよかけよの生活運動


おかげを頂くステージへ

児島赤崎教会生神金光大神大祭(平成26年11月1日)祭典後の教話で、河崎信示師(山口・安下庄)が話された内容を紹介いたします。

和賀心におかげが生まれる
 もう10年以上前になります。教祖奥城に向かう階段で、1人のおばあさんと、その後ろを4、5人のご婦人が一緒に上がっていました。おばあさんは手すりを持って、ゆっくりと一段一段上り、それに合わせて後ろの方々も進んでいました。ひょっとすると、おばあさんが教会の先生で、ご婦人方は信者さんだったのかもしれません。私は急いでなかったので、距離を保ったまま、後ろをついて上がりました。
 一行が階段を上りきった時のこと、おばあさんが、やれやれと手すりから手を放すと、手のひらが黒くなっていました。そのことに他の方が気付いて、「手が黒くなってますよ」と言われた時、私は一瞬、緊張した空気が流れたように感じました。
 こういう場合、手を洗える所を探すか、「ちゃんと掃除しておけばいいのに」と言いたくなるところです。私はその時黒衣だったので、本部の関係者と思われてもおかしくないですから、批判の矛先が私にくるのではないかと、そんな心配もしていました。
 ところが、そのおばあさんは、黒くなった自分の手を見るなり、「ああ、今日は手すりを磨かせてもらいました」と言って、笑顔でそのまま何事もなかったかのように行ってしまったのです。それを聞いた方たちも笑顔になり、その場にサーッと暖かい風が吹いたようでした。それは、おばあさんの和賀心が周りにも伝わったといえますし、おばあさんの神心が周りの人の神心を刺激し、「そこに神が生まれた」出来事だったとあらためて思います。それが、教祖様の奥城という場所で起こったというのが、また、ありがたく、それを見ていた私もおかげを頂いた、そういう出来事でした。
 おばあさんは足が不自由で、手すりを使っただけなのに、汚れていて手が黒くなってしまいました。どちらかというと被害者ですが、不平不足の心は出てきませんでした。それよりもお参りさせてもらった喜び、手すりを使わせてもらったお礼、そういう心だったのではないでしょうか。もしそこで腹を立てたなら、その場に難儀な状態が生まれ、ともすれば「せっかくご本部にお参りしたのに」ということにもなります。でも、そうではなくて、みんながありがたい気持ちになりました。おばあさんの和賀心、和らぎ賀(よろこ)ぶ心によって、その場におかげが生まれたのです。そういう心持ちが、おかげを頂くステージにつながり、そして、そのステージへ周りの人も引き上げてしまったこの出来事をあらためて思い返しています。

「喜び」の器を育てる
 教祖様、歴代金光様、先人の方たちのみ教えを頂くと、どのようにして「おかげを頂くステージへ」進んで行くのかを教えてくださっているように思います。「不平不足にはおかげはない」「おかげは和賀心にあり」「たとえ相手が悪い心を持ってきても、それでも悪い心を持ってはいけない」「世話になるすべてに礼をいふこころ」「お礼を土台として」など、そういう生き方、ご信心を進めていけば、おかげが頂けるということをお示しくださっているのです。
 教祖様の直信で、大阪の難波教会初代、近藤藤守先生がこうお伝えくださっています。「神人あいよかけよの生活運動」のパンフレット第3集に書かれている内容です。
 「信心する者は、その口『喜び』を語り、その耳『喜び』を聞き、その行いすべて『喜び』の行いでなければならない。つまり、毎日信心の喜びに起き、信心の喜びを行い、信心の喜びに寝るのである。(中略)
 とにかく、親神様は、氏子をどうにかして救ってやろうとのおぼしめしをもって、天地を一目に見ておられるのである。別にあれこれとお願いしなくても、氏子の身の上は細大漏らさずご存じのはずである。こちらが、そのおぼしめしを受ける器さえ備えていれば、いつでもおかげは受けられるのである。
 その器というのは、ほかでもない。この喜びの心一つだけなのである。神様のご恩ありがたし、おぼしめしかたじけなしと喜びに喜べば、受けるおかげもまた限りがないのである」
 藤守先生のもとで、たくさんのお弟子さんが育ち、そこから、全国各地にお広前が広がっていますが、教祖様のお広前で教えを頂かれた藤守先生が、おかげを頂くためには「喜び」というおかげを受ける器を育てていくことが大切であることを伝えてくださっているのです。

信者さんが倒れる
 平成21年、立教150年のご本部での天地金乃神大祭の時のことです。当時、安下庄教会は、山口県東部団体という臨時列車で春秋のご本部大祭に参拝していました。毎回、金光駅から歩いて本部会堂北側のスロープに集合してみんなでご祈念をし、後は帰りの電車の時間まで各自それぞれで参拝する、という日程になっていました。
 その年、私は本部の職員として、境内受付案内所でご用をさせていただいていましたが、駅の係の方から、「教会の信者さんが駅で倒れて、救急車で運ばれた。近くの病院が空いてないので倉敷中央病院になる」と連絡がありました。そして、倒れた信者さんの名前と、その方のご主人が同行したということを伝えてくれました。
 倒れた方の名前を聞いた時、私は少し不安になりました。なぜなら、信者さんといっても、このご夫婦は教会にお参りをされているわけではなく、息子さんが私の妹と結婚したご縁で、一緒にご本部へお参りされていた方でした。
 妹夫婦は仕事の関係で、結婚して数か月後から外国で生活することになり、それでお義父さんが、「わしは金光教の信心をするということではないが、本来なら息子が参らにゃいけんところを参ることができんから、代わりに参らしてもらう」と言って、ご本部に参るようになったという律儀な方です。
 初めてご本部にお参りになった時、「『神が助かる』というのは初めて聞いた。あれは感心した」と興味を示していました。天地金乃神様がどういう神様なのか、名前すら知らなかったと思うのですが、平生、庭や畑で自然を相手にしておられることもあるのでしょう。金光教のお話は面白いということで、教会の大祭にも、畑で採れた野菜をお供えになったり、当日の朝、準備の手伝いなどをされるのですが、祭典の時間は席を外して、祭典後の教話の時間には戻ってきます。その後、片付けも手伝って、一緒にお直会(なおらい)を頂く、そういうお参りをされています。家の宗教もありますから、そういう付き合い方を大切にされているのでしょう。
 ところが、その方の奥さんが金光駅で倒れて、救急車で運ばれることになりました。その時が5、6回目の本部参拝だったと思います。私は連絡をもらった時に、「このことをどういうふうに思われるだろうか」と、心配になったのです。しかし、神様のお働きは計り知れないものがありました。
 駅で倒れた時、同じ団体列車にお医者さんがいて、救急車で病院に行くほうがよいということになりました。近くの病院は受け入れてもらうことができずに、倉敷中央病院に行くことになりましたが、その病院には心臓の世界的権威の先生がいて、その方に診てもらうことができました。それで、心臓の状態があまり良くないということが分かったのです。もともと持病はありましたが、心臓が良くないことはそれまで分かりませんでした。お医者さんから、「今日は、このまま帰っても大丈夫だけれど、帰ったらなるべく早く大きな病院で手術を受けたほうがいい」と言われたそうです。
 このご家庭では、日中、ご主人は仕事で外に出ていて奥さんは家で1人です。ちょうど、みんなと一緒にいる時だったので、ご主人に付き添われて病院に行くことができ、お医者さんから説明を受けることもできました。
 安下庄教会のある地元には、車で1時間ほど行ったところに国立病院があるので、早速そちらで手術することになりました。ちょうど息子さんも仕事の関係で日本に戻っていて、手術に立ち会うこともできました。今は、ご自宅で元気にされています。
 いろんなお繰り合わせを頂いて、ご主人もとても喜んでおられ、その春の在籍教会の大祭の直会の席で、「おかげいうのはあるんじゃなあ」と、目に涙を浮かべて話しておられました。参拝のスタイルは今も変わりませんが、神様のおかげをありがたいと思う人が生まれたことを、神様もお喜びくださっているのではないかと思います。

神様も止められない心
 最後に、私が金光教学院在学中に、聞かせていただいた言葉を紹介します。
 「人間は、背くという心を持っている。この心は、神様でもどうすることもできない。だから人間の助けがいる」というもので、とても印象的でした。最初は意味がよく分かりませんでしたが、よく考えてみると、確かに私もみ教えを知ってはいるけれど、それに背いてしまう心もあります。
 「大酒大食するは絶食のもとになるぞ」「人間を軽う見な。軽う見たらおかげはなし」「何を飲むにも、食べるにも、ありがたく頂く心を忘れなよ」。み教えを最初から実行できる人はおらず、できないからこそみ教えがあるともいえます。できないところも含めて神様は、氏子かわいいとのみ思いをかけてくださっているのだと思います。
 神様は人間に自由を与えてくださっています。神様もそれを止めることはできません。ですから、神様がお働きくださるには、こちらの取り組み、信心がいるのです。「おかげを頂くステージへ」進むためには、どういうご信心を進めていけばいいのかということを、教祖様のみ教えは教えてくださっています。
 また、「神人あいよかけよの生活運動」の「願い」も、そのことを端的に示しています。「御取次を願い 頂き」「神のおかげにめざめ」「お礼と喜びの生活をすすめ」「神心となって人を祈り 助け 導き」「神人の道を現そう」。このことによって、日ごろの信心の取り組みが、「御取次を頂けているか」「天地に生かされているということを意識できているか」「お礼の稽古ができているか」「人のことを祈れているか」「独りよがりなお願いになっていないか」といったことを確認できると思うのです。どうぞ、それぞれの手元で信心を進め、おかげをこうむらせていただきたいと思います。

(2015/11)

   



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