神人あいよかけよの生活運動

HOME › 教会信奉者の方へ › 神人あいよかけよの生活運動 › 「教報天地」運動のページ

金光教報『天地』 1月号 神人あいよかけよの生活運動


神様のなかに生かされて

 二ツ井教会の月例祭祭典後の教話で七尾新作師(秋田・二ツ井)が話された内容を紹介いたします。


お取次の失敗から
 数年前のことです。教会に参拝してきた農家のAさんが、「おかげさまで今年の田植えも終えることが出来ました」とお結界でお礼を申され、「これから天候のおかげを頂き、苗が無事カッチャクしますようお願いいたします」とお届けされました。
 私は「はて、『カッチャク』とはなんだろう」と思いながらも、「はい、おかげを頂きましょう」と言っていました。その直後、父である先代教会長に、「カッチャクとはどういうことですか」と尋ねたところ、「辞書を引きなさい。分かったら自分でお結界に進んで再度お願いしなさい」と言われました。「カッチャク」は「活着」で、その意味は、挿し木・接ぎ木・移植などした植物が、根づいて生長し始めること」でした。私はこのお取次から、農村地帯にある教会でご用をさせていただきながら、全く農業というものを理解できていないことを問題にするようになりました。
 その翌年、歯科医をされているBさん夫婦が「高齢となったために閉院して、息子のいる都会で一緒に住みたい」という願いを立てられました。しかし、秋田県に生まれ育って80年以上になりますから、気候風土など心身ともに馴染めるか不安なため、試験的に二年間移住体験をすることになりました。
 教会に毎日参拝されるBさんは、いよいよ出発を目前にして、「自宅の管理は警備保障会社に依頼しましたが、一つ気掛かりなことは、自宅の裏にある畑のお世話です」と言いました。「草取りなどの手入れをしなければ荒れ放題になりますし、誰にお願いするにも不安です」と言うので、教会から近い場所ですから、思わず「私が管理させていただきましょう」と申したところ、Bさんも「先生がしてくれれば、これ以上の安心はない」と喜んでくれました。そのように申しましたが、農業を知らないということがずっと私の心に引っかかっていました。

神様は昼夜休みなく
 お預かりしたその畑に何を栽培しようかと考えましたが、畑仕事は全くしたこともない私です。さらに、毎月泊まりがけで幾度か仙台に行くご用もあり、畑に毎日顔を出さなくてもよいものをと考えた結果、ジャガイモを植えることにしました。
 ある月例祭の日、祭典後に参拝の皆さんとお茶を飲みながら、そのことをお話しし、「ジャガイモはどのようにして植えるのですか」と尋ねたところ、種芋はCさんが準備してくれることになり、Dさんがその芽を出してくれました。後日、私は生まれて初めてくわとスコップで畑の畝作りに精を出し、肥料も何がよいかを教えてもらって、芽が出た種芋を植え付けました。何度か草取りもして、8月下旬に初めて収穫した時は感動しました。
 初めての体験で、たくさんのジャガイモを手にし、まずは神様にお礼を申してお供えさせていただきましたが、果たしてお下げしたこの芋を教会家族だけで頂いていいのだろうかと考えさせられました。というのも、畑の土地はBさんのもので、種芋はCさんのものです。また、芽を出してくれたのはDさんで、私は肥料とお世話役です。それに、天気、水、空気など、人間が出来ることに比べて大変な役回りの神様の働きに思いが至ります。そして、悩みに悩んだ末に、収穫した人の判断に委ねられるという結論に達し、月例祭ごとに出来上がったもの全て神様にお供えさせていただくことにしました。
 これまでも頭のなかの知識としては、野菜などの食物は農家の人が作ってくれていると分かっていました。さらには、天地の働きがあってのことだと分かっているつもりでした。しかし、わずかでも携わってみると、神様は昼も夜も休むことなくお働き下さっており、あらためて神様のなかで生かされている私たちだと気付かされたのです。
 Bさんは、教会の信徒の中心的な方でしたが、移住体験をとおして、その後、ついのすみかとして息子さんが開業している近くで幸せに暮らしています。そして、近くの教会にご夫婦で毎日参拝されているとのことです。このように、Bさんの移住体験は私にとって意義深く大切な機会、成長へのステップとなったのでした。

根でつながるご理解
 現存する日本最古の木造建築である奈良の法隆寺の宮大工棟梁・故西岡常一さんは、宮大工に弟子入りする者には、土いじり、畑仕事をさせ、ご自分のお孫さんは農業高校に入学させたそうです。その理由は、土=天地の「地」に人間が肌で触れていくことによって、自然のなかで育った「木」が不都合なく建物の用材として持っている力を発揮することを理解できるからだそうです。確かに丸太の切り口を見ると、その木が育った東西南北の方角が分かりますし、例えば、南側に面して育った方を北に向けて使うと、いつしかその柱は割れてしまうのです。このことからも、自然には道理があることが分かります。
 先ほど申しましたように、私はジャガイモを栽培する体験はしましたが、一度や二度ではとても分かったとは言えないと思い、教会の裏にピーマン、トマト、ナスを2本ずつ植え、「早く大きくなってくれよ」と願い、野菜に声を掛けながら水をやっていました。
 ある月例祭の祭典後、ご信者さんと話をするなかで、「今日は天気がいいから、また夕方野菜に水をやる」と言うと、突然Eさんが、「先生、野菜に水をやったら駄目です」と言いました。「えっ、どうして」と言うと、「野菜はいくら天気が続いても、自分に必要な水分は地下深くに根を伸ばして生き延びるから、水は必要ありません」と言うのです。
 Eさんが言うには、「生長途中の野菜に水をやり過ぎると、自分では何もしなくても水はもらえる、ということで自ら生長する力がなくなる」ということなのです。野菜だけでなく人間も、手を掛け過ぎると自ら成長しようとする努力をしなくなります。さらには、野菜が植え付けられ育てられていくには、人の手はもちろん、それとは比較できないほど大きな神様のお働き、天地のお恵み、営みがあり、この天地の道理を抜きにしたら、おかげは見えてこないと教えていただきました。このことをとおして、あらためて人間の真実の姿を教えられ、四代金光鑑太郎様が常々仰せられていた「世話になるすべてに礼を言う心」というお言葉の奥深さを味わわせていただいたようなことです。
 教祖様は神様と人間との間柄を生神金光大神取次をとおして教えて下さいましたが、自分と神様の間柄を考えると、まさに私たちは神様のなかで生きているように思えます。それでも時々、神様のなかから心が外に出てしまうこともあります。そんな時には、不足の心が現れてくることもありますが、それでもみ教えをとおして、元の心に戻らせていただけるからありがたいと思います。
 今、教会では、『金光教教典』と『天地は語る』を月例祭の後に5節読み合います。昭和58年から始めて30年になりますから、ご理解の400節を何度も繰り返し読み合ったことになります。私はこの農業体験をとおして、ご理解の一節一節の奥深さをあらためて思わせていただくとともに、一つ一つのご理解が土台でつながっていると感じるようになりました。そのつながりのキーワードこそが「天地の道理、物の道理」であると思わせていただいています。

(2016/1)

   



このページの先頭へ