神人あいよかけよの生活運動

HOME › 教会信奉者の方へ › 神人あいよかけよの生活運動 › 「教報天地」運動のページ

金光教報『天地』 5月号 神人あいよかけよの生活運動


「喜び」を見つける稽古を

北九州教区福中第二教会連合会総会で、佐藤和貴師(佐賀・相知)が話された内容を抜粋して紹介いたします。


祈りのなかで
 私は教会で生まれ育ちましたが、高校を卒業してすぐに地元の企業に就職し、寮での生活を送りました。それまで教会での生活は辛抱することの方が多かったため、自由奔放な生活で楽しい日々でしたが、仕事は思っていたよりも楽でどこか物足りなさを感じていました。
 長男ということで、小さい頃から教会の後継者として期待されることを負担に感じてはいましたが、「いずれ自分が」という思いもありました。そして「お道の先生は人を助けるご用なのだから、もっと苦労をし、いろんな経験をしなければ」という思いが強くなり、3年で会社を辞めてしまいました。
 当初、黙って東京か大阪に出ていく予定でしたが、親に見つかり「せめて福岡ぐらいにしてくれ」と言われ、また「お前がどうしてもそうしたいと言うならば、親教会にお参りしてお取次を頂いてからにしなさい」と言われて父と共に参拝しました。
 お結界で甘木教会の二代親先生に、仕事を辞めたことをお届けしたところ、満面の笑みを浮かべられ、「いよいよ学院に行く気になったか」とお喜びになりました。しかし、もう少し社会勉強をしたい旨を伝えると、厳しい表情になり、応接間に呼ばれて懇々とご理解くださいました。それでも私の意思は堅く変わることがなかったため、最後は「祈っとくばい」とおっしゃってくださいました。
 その後、父にすまないという気持ちもあり、「今すぐというわけではないけど、教会を継いでもいいよ」と伝えると、烈火のごとく怒り出し、「お前はお道の教師をなんだと思っている。簡単に継げるものと思っているのか」と言われたのでした。その時は「どうして」という思いでいっぱいでしたが、今、自分が教会長という立場に立たされてみて、あの時の父の厳しい言葉がよく分かります。
 一方、母は「まだ、あなたは21歳でしょう。他の先生も私たちも完全じゃありません。人生は一生が修行と言うじゃありませんか。うんと苦労してきなさい。後悔するより今やっておきなさい」と言って3年の約束で送り出してくれました。
 私は意気揚々と福岡に出て、六畳一間のアパートを借り、限られたなかでいろんな経験をしたいという思いから、半年ごとに仕事を変えていきました。そんななか、セールスの仕事にも挑戦しましたが、全く売れず、貯金も無くなり、アパート代も払えない状態になり、それを見かねた先輩が博多の埠頭(ふとう)での日雇い労働の仕事を紹介してくれたり、一緒にチリ紙交換の仕事などをして、生活を立て直していきました。
 約束の3年まで残り1年となり、これからの人生を考えた時に、「お道の教師は人が助かる尊い仕事だ」という思いにならせていただき、学院に行くことを決意しました。学院入学の費用を貯めるため、住み込みでの仕事を探しましたが、どこも採用してくれる所は無く困っていたところ、ホテルの面接官が、偶然にもある教会の総代をされている方で「これまでバイトの人は寮に入れた事はないが、あなたが正直に話をしてくれて、教会の息子さんであるということで信用しましょう」と採用してくれたのです。一年間ホテルで働いた後、学院に入学しました。
 私にとっては、とても貴重な3年間で、時には危ない思いをすることもありましたが、多くの祈りのなかで神様にお守りいただき、道をつけてくださったように思います。もし黙って東京か大阪に出ていたら、きっと今の私はありません。やはりお取次を頂くことが大切だと思います。

思いかえによって
 学院を卒業して、私は本部でご用をさせていただきました。春秋の大祭時には日頃の部署とは違う係に分かれてのご用となり、私は駅係でした。
 ある時の大祭で、「岡山から来られた80代のご婦人が小田橋で倒れて救急車で運ばれた」という連絡が入り、係の主任だった私は急いで金光病院に行きました。待合室では、80代と50代くらいの2人のご婦人がうなだれて座っていました。私が「本部から参りました」と言うと、付き添っていた50代のご婦人はほっとしたような顔をされたものの、「私は今日、初めてお参りしました。なのに、どうしてこんなことになるんですか。ありがたいとみんなが言うから来たのに」と詰め寄られました。私はしばらくご祈念しながら聞かせていただいた後、「よかったですね」と言わせてもらいました。このように私が言えたのは、次のような経験からです。以前にも本部で倒れられた方がいて、その時診てくださった看護師に「お参りに来られてこんなことになって」と言われたことがずっと頭に残っていました。そのことを関東のある先生に話すと、「私たち遠方から来た者は、途中の見ず知らずの所で倒れたらどれだけ不安か。それをこのご本部で、金光様のおそば近くの病院でお世話になって、どれだけありがたいことか分かりませんよ」とおっしゃってくださいました。
 そのことをご婦人に話すと、「今日は教会の先生もおられないし、おばあさんも一人だったら大変なところをお世話させてもらい、私はそういう役目があるのでご本部に来させていただいたんですね」と、思いかえをしてくださいました。倒れた80代のご婦人も元気になられたのですが、そのご婦人は一人暮らしでした。一人では心配なのでご家族を呼ぼうとしても、かたくなに連絡先を教えてくれません。近くに住んでいるらしいのですが、仲が悪いのでしょう。なんとか最後は「どうせ来ないでしょうけど」と言いながらも教えてくれましたが、連絡すると息子さんがすぐ来てくださり、しばらく一緒に生活することになりました。このように何がおかげになるか分かりません。そういうありがたい経験もさせていただきました。

教会ご用の厳しさ
 平成13年の9月に、父が脳出血で倒れて亡くなりました。76歳でした。さらに11月には母が脳梗塞で倒れて入院することになりました。私は子どもたちの学校のこともあり、翌年の3月で本部のご用を退いて教会に帰らせてもらおうと思い、妻と親教会にお参りして、そのことをお届けさせていただきました。すると、親先生は、「教会というところは、建物があって、お結界があって、それだけでいいというものじゃないからなあ。そこでご用させてもらわんと。教会に誰もいない、いつまでも留守というのは教会とは言えんからなあ。はじめはつらかろうが、先々を見ればなあ」とご理解くださいました。続けて私は、経済的な不安も正直にお届けさせていただきました。すると、親先生は「神様のご用をしておれば、決して神様は殺しはなさらん」とお取次くださいました。
 その時42歳だった私は、教祖様のことを思いました。教祖様は42歳の大患を乗り越えられ、「欲を放して、天地金乃神を助けてくれ」との神様の願いを受けられて、このお道を開かれました。私一人であれば、「死んでもままよ」の思いになれたとしても、3人の子どもたちのことを思うと胸が張り裂けそうになったのですが、「今欲を放さずして、いつ欲を放すんだ」という思いになり、少し時期を早め、その年の12月に本部のご用を退かせていただきました。
 いよいよ本部を発つ時、現教主金光様に正直に今の不安な気持ちをお届けさせていただくと、「おかげを頂きましょう」とお広前中に広がるような声でおっしゃってくださいました。金光様は365日お休みなくご神勤くださり、並々ならぬご用であられます。そういうなかで、「おかげを頂きなさい」ではなく、「お互いにおかげを頂いていこう」というお言葉を、大変ありがたく思わせていただきました。
 しかし、現実はとても苦しいものでした。帰ってすぐの越年祭には、一人もお参りがなく、気を取り直して元日祭を迎えましたが、それでもお参りがありません。「ここまで厳しいとは」と思った時に、本部でご用していた当時の上司だった先生が心配して電話をかけてきてくださいました。先生は私の不安な思いを黙って聞いてくださり、「いろいろとこれから大変だと思うが、お互いお道のためにがんばろうじゃないか」と力強い言葉を掛けていただき、元気をもらいました。
 妻も3人の娘たちもよく辛抱してくれました。教会の建物は古く、雨漏りはするし、壁は落ちている。所々床も抜け落ち、これから家族5人どうなるのだろうかと不安でいっぱいでした。
 しかし、新地布教された先生方が、六畳一間のお広前、お風呂も炊事場も無いような状態から始められたことを思うと、雨風をしのげるだけでもありがたいと思い、毎日お土地と建物に手を合わせ、お礼を申し上げました。先々おかげを頂きたいという思いから、未来の教会の設計図を書いて、神様にお供えさせていただきました。

信心辛抱のその先に
 それから数年後、教会の前の道路を拡張する話が起こり、教会を建て替えることとなりました。そのことは大変ありがたいのですが、教会の裏には川が流れており、そこから5メートルほどの高さの石垣が積まれ、その上に建物が建っていました。今の建築法からすると、石垣を全部やり変えないと建築の許可が下りないと言われ、また、石垣は道路とは関係ないため補償の対象にならないということで、この先どうしていいのか分からなくなりました。
 すぐに親教会にお参りすると、大奥様(前教会長夫人)は「あなたが建てようと思えば大変でしょうけど、神様がなさるんだから。すべて親先生にお取次頂かれたら、後は親先生が責任持ってくださるから」とおっしゃってくださいました。
 その後も次々と問題が起こってきましたが、その都度、親先生にお取次頂いて、石垣のことは何とか解決し、こじんまりとではありますが、以前神様にお供えさせていただいた設計図に近いものができました。それまでは右は鉄工所、左はスナックで、昼夜騒がしい環境だったのが、両方がよそへ移り、まるで教会のために道路が広がったようでした。
 教会に帰ってすぐの頃、大変ご苦労をされたある先生から「辛抱なさいよ、先生」と言われましたが、その時私は、「また辛抱か。どこまで辛抱すればいいんだ」と思いました。けれども、今では信心辛抱に勝る力はないと思います。我慢では辛く苦しいだけですが、本当のお道の辛抱であれば、苦しみのなかに喜びが湧いてきます。
 今年、私は「喜び」をテーマに取り組ませていただいています。どうしたら喜んでいけるか、簡単そうでなかなかそうはいきません。毎年正月に親教会にお参りすると福引きがあり、今年は「喜びの心一つに進みゆき神の御許に参ゐのぼれとぞ」というみ教えを頂きました。また、ご本部に年頭参拝した折に聞いた朝の教話で、講師の金光図書館長・金光英子師は、「できることは何でも喜んでする」「できたことにお礼をする」「できないことにお詫びする」という高清姫様(金光四神様夫人)の3つのみ教えをご紹介くださり、先生ご自身も「喜んでしていたら、不平不満、愚痴不足がぽーんと飛んでいく。喜んでするから、させていただいてよかったと思える」とお話しされていました。
 喜べない時には、喜びを見つける稽古をしなくてはなりません。このたび大雪が降り、何十年かぶりに雪かきをして腰を痛めてしまい、このお話のご用に差し支えないだろうかと心配しました。しかし、手も足も動かせる、食事も頂ける、探していけば喜びはたくさんあると思います。やはり喜ぶ稽古が大切です。どうぞ共々に元気な心と体を頂いて、お道のためにおかげを頂いてまいりましょう。

(2016/5)

   




このページの先頭へ