神人あいよかけよの生活運動

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金光教報『天地』 6月号 神人あいよかけよの生活運動


御取次を願い頂いて

東中国教区輔教集会で、出射宏子氏(岡山・豊原・信徒)が話された内容を抜粋して紹介いたします。


息子と共にお育てを
 私は38歳の時、初めての子を授かりました。家族は大喜びで、里の親にも孝行ができました。豊原教会前教会長・小林晋師は、「かわいがり過ぎないように、『この子が役立つ人になるような子育てをさせていただく母親』にならせていただくように」とご理解くださり、「ちちははも子どもとともに生まれたり育たねばならぬ子もちちははも」との四代金光様のお歌を教えてくださいました。
 私は先生に、「息子が心身ともに健やかで、お役に立つ人に育てさせていただく私にならせてください。そして、親孝行をしてもらえる親にならせてください」と、子育ての信心目標をお取次願いました。先生は「大きな願いは、なかなかおかげを頂けずに信心をやめる人がいる。しっかりおかげを頂きましょう」と励ましてくださいました。
 それから毎週日曜日には、息子と一緒に教会に参拝しました。息子が小学3年生の頃、先生が「一人でお取次を頂いてごらん」とおっしゃってくださり、息子は私の顔を見ましたが、素直に一人でお取次を頂いてくれました。それから息子は、小学4年生の9月から、100日参拝にも取り組み、以前交通事故に遭って患っていた頭痛が全快するおかげも頂きました。そのようにして、教会で親子共に信心のお育てを頂いてきました。

夫の失業から心磨き
 夫が43歳の時、不況のあおりを受け失業しました。息子が7歳の時です。やがて夫は昼間からお酒を飲むようになり、生活は荒れていきました。息子がそっと「お父さん、お昼からお酒の匂いがするよ」と教えてくれた時、私はとっさに「金光様」と祈りました。そして、夫も息子も助かるようにお願いしながら、息子に「学校から帰ってきたら、毎日、ちょっとでいいからお父さんとお話をしてほしいの。お父さんきっと寂しいから」と話し、息子を抱きしめました。
 それからの夫は、息子と話したことを私に幸せそうに話してくれるようになりました。息子の高校、大学進学についての話も、夫は嬉しそうに私に話して聞かせてくれました。夫はアルコール依存症となり、以前から抱えていた糖尿病が進み、病院への入退院を20回以上繰り返し、仮死状態にも3度なりましたが、そうした父と子の会話は、夫が亡くなるまで続きました。
 私は、会社勤めに励み、毎日教会に参拝して先生にお取次を願い、家族の助かりと立ち行きを祈り続けました。「夫の飲むお酒をお神酒にしていただいて、体に合うようにしてください」とも願いました。また、先生のご理解くださる「世話になるすべてに礼を言う心」や、「お礼を土台にする信心」の実践に必死で取り組みました。お水やお布団などお世話になる物や、医師や看護師、薬を作ってくださる方々へお礼を申し、薬が夫の体に合うようにお願いしてきました。
 そうして神様に必死に祈っていくなかで、私は、「夫のことはすべて、神様のお計らい」と思えるようになりました。「夫がいて息子を授かることができた。私と息子は健康な体を頂いている。夫が、私と息子の病気を代わってくれている」と、今おかげを頂いていることへ思いを向けて、神様に、そして夫にお礼を申し上げました。息子にも、幼い頃よく遊んでくれ育ててくれた、大切な父親であることを伝え続けました。
 私は、職場では200人ほどの社員の給料と人事を一任され、ありがたくも多忙な毎日でした。生活の現状は暗くて長いトンネルのなかにいるようでしたが、必死に神様に心を向け、先生に支えていただいて日々を過ごすことができました。それは、長く荒れた闘病生活のなかにあっても、ずっと心に大きなおかげを神様から頂いていたからです。
 日々の心配や不足の心は、毎日お結界で先生にお預けし、お取次を頂いて、私はいつも元気で明るい顔で暮らすおかげを頂いていました。そうした日々の信心生活は、私の心磨きをさせてくれました。
 息子は、中学、高校生となってもそれまでと変わらず、多感な年ごろにも反抗期はありませんでした。私がお弁当を作り忘れた時も、「気にせんでええよ。みんなにたくさんもらって、腹いっぱいになった」と笑って言ってくれるような、心優しい青年に成長してくれました。

「大好きな父でした」
 息子が大学に合格し、教会にお礼のお届けをした時に、先生から「アルバイトをさせないように、大学生は勉強をするようにしなさい」と、ご理解を頂きました。私は、息子にアルバイトをしてもらおうと思っていたのですが、アルバイトをしない約束で、息子は大阪で一人暮らしを始めました。
 私一人の経済力で、病気の夫と大学生の息子の生活費のやりくりは大変でしたが、毎日神様にお願いして、月々のおかげを頂きました。息子が必要なお金は、息子の口座に振り込み、本人に支払いをさせ、金額と手間を分かってもらい、倹約をしてもらいました。私は、教会にお参りして、毎月頂いた給料のお礼を申して、分相応、お粗末のないお金の使い方をお願いしました。おかげを頂き、そうした生活のなかでも、将来への貯金を少しずつさせていただきました。
 息子は大学2年生の終わり頃から、公務員採用試験の勉強を始めました。息子の努力の姿を見ながら、私は神様にお願いばかりしていました。息子はおかげを頂いて、国税専門官採用試験と国家公務員採用試験に合格することができ、神様にその後の進路のお願いをさせていただいていた時に、すぐに面接に来るように連絡があり、広島の財務省への就職が決まりました。本人は大喜びで、教会の先生も大変喜んでくださいました。
 息子は就職後、広島から毎月帰省し、広島へも呼んでくれました。勤めて3年が経った時、息子は大学時代からお付き合いしていた方と結婚のおかげを頂きました。金光教をまったく知らない方でしたが、婚約の日から息子と一緒に教会にお参りをし、その後も帰省のたびに2人そろって教会に参拝してくれています。息子夫婦に長女が生まれてからは、孫の写真やビデオで私たちを楽しませてくれました。その頃の夫は肝臓がんで治療中でしたが、孫が生まれた時は大喜びで、お嫁さんの実家まで、私と息子と3人でお祝いに行きました。それが、夫にとって最後の旅行となりました。
 夫が余命宣告されてからの半年間は、息子一家は毎週金曜日の夜に帰省してくれました。夫は、人工呼吸器を付けての生活になっても、息子たちが来ると、元気に身を乗り出して孫と触れ合っていました。夫の最期は、顔はつややかで美しく輝き、まるで神様のように穏やかなお国替えのおかげを頂きました。
 息子は、父親の出棺の挨拶で、「世界一大好きな父でした」と、精いっぱいのお礼の心を贈ってくれました。葬儀の後も、教会に参拝して、先生に父親の生前のお礼や、葬儀のお礼をお届けしてくれ、先生も夫のこと、息子一家のこと、私のこれまでの看病生活のことを、神様にお礼申してくださいました。

末の安心を頂いて
 その後、息子が東京勤務となってからは、帰省は年に1、2回となりましたが、私を東京観光に呼んでくれたり、日常の様子をメールしてくれたりしています。お嫁さんからは、孫が描いた絵や手紙などのプレゼントも届きます。私は毎日届くメールのお礼と、息子一家のお願いを、日々お結界でお取次頂いて、安心の毎日を送らせていただいています。今では、息子は娘2人の親にもならせていただき、夫としても、父親としてもお育てを頂きつつあります。
 今年の夫の5年祭には、息子は多忙のなか霊祭を最優先し、小林光教会長に相談して日取りを決めてくれました。先生は、霊(みたま)様を大切にする息子たちを、とても喜んでくださいました。当日は、家族全員で帰ってきてくれ、4歳になる孫は、私に「私も岡山のじいじに会いたかったわ」と言ってくれました。そして、お祭りではお姉ちゃんと一緒に祭詞をジーッと聞き、拝詞集を持って一生懸命に皆と同じように霊前拝詞を唱え、祈ってくれていました。私は、そうした孫たちの姿がとても嬉しくて、心優しく育ってくれたことに対して、息子夫婦に感謝し、神様にお礼を申し上げました。祭典の途中で雨が少しだけ降りましたが、先生が、「霊のお父様が喜ばれて、うれし涙を流しておられる。良かったですね」と、息子の父を思う心を喜んでくださいました。
 教会に毎日参拝をして、お結界でお取次を願い頂き、わが家で実行させていただいて、はや35年。願い以上のありがたい、幸せなおかげを頂いています。信心をしていて本当に良かったと思います。現在、何かとたるみの見える私に、先生は、「大変な生活であったから、やれやれと思う気持ちは分かるが、まだまだこれから。信心も手習いも同じで、油断すれば横着になるから」と注意してくださいます。
 私は今、末の安心、子孫繁栄と、私がお国替えさせていただくまで元気で教会に参拝させていただけるように、また、息子一家が心身共に健やかに成長させていただき、このありがたい大切な信心を忘れずに、離さないようにと、日々お取次を願い頂いています。

(2016/6)

   




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