神人あいよかけよの生活運動

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金光教報『天地』 10月号 神人あいよかけよの生活運動


何も「できない」と「していない」は違う

三宅道人師(東京・常盤台)が執筆した内容を紹介いたします。


「先生の趣味でしょ」
 常盤台教会では、信仰実践として社会活動や他宗教の方々と対話する活動を微力ながら進めています。各地の災害・紛争地などのいわゆる「グラウンドゼロ」に立ったり、対立している宗教者の間で双方の言い分を聞いたりすると、私一人では何もできないことを痛感します。忸怩(じくじ)たる思いから腹を立てたり、不安や心配が次から次へと生まれてきたり、幾度となく無力感に打ちのめされることもあります。
 しかし、このような活動に対して、時には「そりゃ先生の趣味でしょ」と揶揄(やゆ)されることがあります。おそらく私も、一度も体験がなければ同じようなことを言っていたかもしれません。けれども私は、次のような体験から神様のお働きを感じさせていただきました。

違いは美しい
 1990年から続いている「日韓青年交流会」という信仰を持つ青年による集まりがあります。第1回目では、親善・友好が目的であるにも関わらず、韓国の代表団が開会式前に、「まずはあなたたち(日本)の謝罪無しには、プログラムも対話も始められない」と帰国寸前の状態になったそうです。当時の日本の役員が、「両国間の歴史認識に違いを認め、このプログラムを通して相互理解を深め、改めるべきところは双方ともに改めていく」と宣言して、どうにか開会することができたそうです。以降、青年代表団がお互いの国を行き来して回を重ねていきましたが、「近くて遠い国」と表現されているように、そう簡単に日韓両国の溝を埋めることはできませんでした。
 2003年、私が日本側の責任者を務めた時に、京都にある神道教団施設に代表団役員と共にホームステイをしました。その際、韓国代表団は、拝礼もかしわ手も一切せずに神前を素通りしました。韓国の方にとって、神社やかしわ手というのは、日本の国家神道そのものであり、どうしても日韓併合時代の悪いイメージが付きまとうのでしょう。日本との歴史を考えると、その心情を察することもできます。当時は、教科書問題や靖国神社参拝問題などが社会でも大きく取り上げられていた時期でした。しかし、「そこまで意固地になるのか。宗教は違えど、信仰を持つ青年リーダーがそんな態度でいいのか」という思いもありました。
 それがある日を境に、皆神前に自ら手を合わせて、かしわ手を打つようになりました。そのきっかけとなったのは、信仰体験プログラムの一環として行われた、宿泊先の神道教団の副教主による世界平和祈願のみそぎでした。私たちは見学のみで、副教主は、立っているだけで震え上がるほどの2月の凍てつく寒さのなか、ふんどし、鉢巻き姿で、一心に滝に打たれながら両国の真の友好を祈願されました。その祈りの姿は神々しく、見学している両国の青年たちは、自然と合掌し、滝行を見守りながら祈りを共にしていました。それぞれ違いはあるけれども、世界真の平和という願いが一つになった瞬間でした。
 プログラムのなかでは、激しい議論でお互いの意見をぶつけ合うこともありました。寝食を共にして、奉仕活動に汗を流すこともありました。お互いの文化に触れ、時にはレクリエーションで大いに笑い、共に歌いました。
 参加した青年が、「違いは美しい」という内容で次のような発表をしました。
 「交流プログラムを通して、国籍、文化、宗教や言葉が違うお互いであるが、その違いを美しいことと捉えることで、共感し合い、互いを認め合い、必要とし合うなかで絆が深まっていくと感じた。わだかまりや偏見、相手に対する誤解を取り除くためにも、このようなプログラムを継続して相互理解を深めていきたい」
 会場には大きな拍手とともに「違いは美しい」と日韓両国語での大合唱となりました。
 すべてのプログラムを終え帰国する際には、参加者皆が涙を流して抱き合い、別れを惜しみながら帰途につきました。第1回目からはじまる、先の見えないなかでの先人たちの地道な取り組みの積み重ねが、実を結んだのだと思います。今も、日韓の青年たちは、時には中国やアメリカの仲間を交えて交流を続けています。
 問題が起こった時、私は、いつも師匠の「(私たちは)できることをするために活動しているのではない。困難だからこそ、あえていばらの道を前に進むのである。神仏が、何もできない自分をできるように引き上げてくださっているのだ」という言葉を思い起こします。すると、「こんな自分でも何かできないか」と、動かずにはいられない気持ちが湧き出てくるのです。
 「何もできない」のは、決して「何もしていない」こととは違うと思います。祈りをもって他者のために働くと、そこに限りなく大きな神様のお働きが生まれてくるのだと信じています。

おばあちゃんの時計
 2011年3月11日、東日本大震災が起こりました。教会でもすぐに救援・募金活動を開始し、現地でのボランティア奉仕活動にも幾度となく足を運びました。
 教会の青年たちが、気仙沼へボランティアに行った時の話です。参加者は皆、ボランティア経験者でした。「あらためて出発前に心がけることを教えてください」と言われたので、「ケガのないこと、人様に喜んでいただく活動をしてくること」と青年たちに祈りの言葉を託しました。
 活動先は、気仙沼教会長・奥原先生の同級生宅の泥かき作業でした。家中が泥にまみれて、流れ込んだゴミなのか家の物なのか、見分けがつかないほどでした。そのなかで、「見つからないと思うけど、数年前に亡くなったおばあちゃんの形見の時計が見つかれば…」とご家族の方が何日も探しておられたそうです。青年たちも、ご家族と共に一所懸命泥かき作業をしながら時計を探しました。しかし、その時計は見つからないまま、気仙沼を出発する時刻が迫ってきました。
 その時、「あー」と大きな声がしました。リーダーは、「しまった。ケガでもしたか」と顔を声の方へ向けました。声の主の青年は、その場でうずくまっています。いよいよ心配になり、皆が集まってきました。「大丈夫?」と声を掛けると「あった。おばあちゃんの、これですよね」と泥まみれの時計を大事そうに拭いて差し出したのです。家族の方が「そう、これです。おばあちゃんの」という言葉と同時に、その場の全員が歓声を上げて涙しました。
 帰りの時刻が迫るなか、その青年は、おばあちゃんの時計がずっと気になって作業を続けていたのです。「ご家族が何日もかけて探しておられるのに、自分たちが2、3日探したところで見つけられるのか。もしかすると、もう津波に流されているかもしれない、という思いが頭をよぎることもありましたが、神様・霊(みたま)様に『どうか、時計を、おばあちゃんを、家族に出会わせてください』と祈りながら作業していました」と後日話してくれました。

ありがとうにありがとう
 「先生、人様に喜んでいただける活動の意味が、ようやく分かりました。出発時このボランティア活動自体が、人様のためになり、喜んでいただける活動ではないかと思いながらも、何かを求めながら作業をしていました。本当に人様に喜んでいただくには、まず自分が心から喜んでいなくてはいけないと思います。そして相手の喜びを共に見つけていき、共に喜ぶことなのだと気づきました。帰り際にご家族の皆さんが『ありがとうございます』と私たちに声を掛けてくださり、私たちも『こちらこそ、ありがとうございます』とお礼を返しました。お互いがお礼を言い合う不思議な光景でした」と復路の新幹線から青年は、私に報告の電話をくれました。
 四代金光様は、「奉仕することはそのまま自らが救はれ助かることと思ふに」とお歌を詠まれています。まさに、「助けて助かる」道だと思います。奉仕していただいた側も、させていただいた側もお礼の言葉が出てくるということは、いわゆる情けや哀れみをかける慈善活動とは根本的に違うのだと思います。
 「何を言っても通じない、どうせ聞く耳などもってはいない」と、はじめから先入観や思い込みで「無理」と決めつけず、祈りと勇気をもって一歩を踏み出せば、思ってもいない、今まで経験したことのない神様のお働きが頂けます。それはボランティアに限らず、人との関わりにおいても言えることでしょう。何もできないお互いだからこそ、そこに神様のお働きを頂かなければならないのだと思います。

(2016/10)

   




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