神人あいよかけよの生活運動

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金光教報『天地』 11月号 神人あいよかけよの生活運動


ありがとうが言えるまでに

 本部で開催された青年親睦会での講話要旨 : 岩本 信治 先生(岡山・乙島)


いじめる人を祈る?
 私は中学1年の時にいじめに遭いました。靴箱の靴の中に虫を入れられたり、会話の仲間外れにされたり、そういうことが続いて、私はいつしか、人の笑い声すべて自分が笑われているのではないかと感じるようになりました。そのため、人が怖くなり、できるだけ目立たないようにして過ごしていました。
 教会で生活していたので、それまでご祈念などはしていたのですが、当時は本当につらく、「なんでいじめたりするのか」という思いを抱え、真っ暗な闇の中を歩いているような気がしてなりませんでした。「こんな気持ち、親にも言えない」。ずっとそう思っていたのです。
 そんなある日、初代である私の祖父が、夜ご祈念で話をしている内容が、ふすまの向こうから聞こえてきました。
 「世の中にはいろんな人がいる。例えば、盗っ人をするような人もいるし、逆に人に物を与えるような人もいる。いじめる人もいれば、いじめられる人もいる。もし、いじめられる側だったり、物を盗まれる側になった時、どういう心にならせてもらうとよいのか」
 そんな言葉が聞こえてきて、私は耳を澄ませました。祖父は続けて、「いじめをする人が悪いとも言い切れない。いじめをする人はいじめをするだけの何か事情があって、いじめをしないとすっきりしない心なのだ。だから、かわいそうな面があるのだ」と言いました。そして、「いじめをするような人の心を、祈ってあげられるような心にならせていただきましょう」と話していたのです。
 私はそれを聞いて、「祈るなんて…」と思ったのですが、中学3年間はずっと真っ暗の状態で、ただひたすら祈らざるを得ないという日々を過ごしました。

「お医者さん」をきっかけに
 高校に入学すると、いろんな地域から人が集まり、同級生が様変わりします。私はクラスの保健委員に選ばれました。その後、生徒会の保健委員長を選ぶ場があり、誰も手を挙げなかったことから、「岩本くん、やってみる?」と周りから言われて、私は分からないままに「はい」と返事をしたのです。
 保健委員長の役割の一つに、体育祭の時に全校生徒の前で「保健上の注意」を促す、ということがあったのですが、当時の私からすれば、それは信じられないことで、そのことが分かった時から緊張のあまり、ずっと眠れないほどでした。
 当日を迎え、私は緊張のままに全校生徒の前に立ちました。そして、「皆さん、気分が悪くなったら、お医者さんを呼びますので保健係に言ってください」と言いました。すると、普通は「医者」と言うところを「お医者さん」と言ったのがよかったのでしょうか、その言葉がみんなには面白かったようで、その後、いろんな人が私に声を掛けてくれるようになったのです。そのことで、私の中の「人が怖い」という気持ちは、高校3年間でだいぶ和らいでいきました。
 今から思うと、あのいじめられた時期も、すべて「私自身のためにあった」と思います。もともと傲慢(ごうまん)な性格だった私は、小学生までは人をいじめる側の人間でした。しかし、自分がいじめに遭ったことで、いじめられる人の気持ちが分かり、「祈る」だけでなく、私自身の「心」も育てられた日々でした。

死にたいけど生きていたい
 それから年月が経ち、私は東京に出て社会人となりました。入社して8年目の31歳の時、営業成績が認められ、中間管理職、その会社ではチーム長という役職に昇進しました。けれども、そうなった途端にすべてがおかしくなりました。
 初めて部下ができたことで、人を動かす立場になったのですが、部下たちはなかなか、こちらの言う通りに動いてくれません。そのことで私は余計に相手を怒ったり叱ったりするのですが、それが続くと部下から嫌われるようになり、陰口を言われ、もう何も聞いてもらえないということになりました。そうなると、部署全体の成績も悪くなり、私は上司から、「岩本、お前は何をやっとるんだ。ちゃんと部下を指導しなさい」と叱られるのです。
 上司からは叱られ、部下からは陰口を言われ、お客さまとも問題が起きてクレームが増えました。毎日、四方八方から怒られてばかりいると、どんどん孤独感も増していきました。
 そんな状況が続き、とうとう私はうつ状態になってしまいました。夜眠れない、朝起きられない、食物も食べられない、という体になってしまったのです。そうなると、大事な商談もすっぽかすほどになってしまいました。
 当時、自分ではそんな自覚は無く、後から同期が、「あの頃は、何だかおかしかったよ」と教えてくれました。病院に行けば、うつ病に効く薬をもらえたのかもしれませんが、私は病院には行きたくなかったのです。
 結局、その状態のまま1年半くらい過ごしました。自宅に帰ると毎晩つらい気持ちになり、「明日も会社に行かないといけない。でも行きたくない」。その繰り返しでした。次第に私の心境は、「ああ、自分がいなくなればいいんだ。自分がいなくなってしまえば部下も楽になるし、上司も楽になるし、お客さんも問題が無くなる。だから死んでしまいたい」と思うようになりました。
 けれども、「やっぱり生きていたい」という気持ちもあるのです。「死にたい。死にたくない」と夜に瞑想(めいそう)する日々の中で、私は家の近くにある神社にお参りするようになりました。その神社の掲示板には毎月違う言葉が書かれており、それを見ては、自分と照らし合わせ、「ああ、頑張ろう」と何度も自分に言い聞かせていたのです。

認めて寄り添うことで
 そんな時、私が東京に出てくる際、父から言われた言葉が心に浮かびました。「信治くん、教会を出て行くのだから、せめて部屋に天地書附を掲げて、そこをご神前としてご祈念をさせていただきなさい」。そう言われていたのですが、私はすっかり忘れており、渡された天地書附もタンスの中に入れていたのです。
 ようやく取り出し、部屋に掲げると、ご祈念の仕方も分からなかったのですが、毎晩手を合わせて天地書附を読み上げ、「今日は○○さんからあれを言われた。これを言われた」とか、「このやろう」と思うことをぶつぶつ一人で言いながらご祈念するようになっていきました。
 すると、もう一つ思い出したことがありました。それは生前の祖父の姿でした。私の祖父は「ありがとう」を言う稽古をしていました。1日に1300回くらいと聞きましたから、とにかく朝、目覚めてから「ありがとうございます」と、何をしてもしなくてもお礼を言っていた祖父でした。
 以前はそんな姿を見て、「面倒くさいな」と思っていたのですが、「もうこれしかない」と思い、アパートでのご祈念の際、「上司の○○さん、ありがとうございます」「部下の○○さん、あんなこと言いやがって。でもありがとうございます」「お客さん、勝手なこと言いやがって。でもありがとうございます」と唱えるようになりました。そして、その次に「ごめんなさい」と続けたのです。「上司の○○さん、すみません。結果が出せなくてごめんなさい」「部下の○○さん、あんな言い方してごめんなさい」。そうやって毎晩2時間、同じことを繰り返しました。すると、以前とは違い、なぜか次の日、目覚めがよく、1日を頑張れるようになっていったのです。
 そんな中で気付いたことがあります。「何がいけないのかな」と考え直してみると、「部下が悪い」「上司が悪い」「あの人が悪い」と、これまで「自分がつらいのは、周りのせいだ」と思っていましたが、この「つらい」という気持ちは、「少しでも自分が変わらないといけないんじゃないか」という思いに変化し始めたのです。
 そうやって自分自身を見つめた時、「私の目線は、部下の目線とだいぶ違っていた」という思いになりました。「これからは、私が部下の目線に合わせて会話をしていこう」と決め、今まで部下に対して、「これもできんのか」という言い方をしていたところを、「ああ、あなたは今こういう状況なんだね」とか、うまくいかなかった時、「じゃあ今度はこうしていこうか」と声を掛け、一人ひとりと丁寧に話をしていきました。そうなると、雰囲気ががらりと変わっていきました。
 私はこれまでの経験から、お互いこの世に生まれているということは、すごいことだと思うようになりました。それぞれ人には得意不得意があり、長所があれば短所もあります。そのことを思った時、私はみんなの「良いところを見つけていこう。生まれてきていることを喜び合おう」と考え、十数人いた部下全員の誕生日を「みんなでお祝いしよう」と思ったのです。
 仕事が終われば小さなケーキと、当人をイメージして選んだ花をプレゼントして、皆で「ハッピーバースデー」を歌ってお祝いするようになりました。すると、さらに雰囲気がよい方へと変わっていったのです。
 気が付けば、1年半が経った頃には、「よし、頑張っていこう」という雰囲気になりました。やはり、私自身が変わらないといけなかったのです。
 それからすぐに人事異動があり、社長の近くで仕事をさせてもらうようになりました。ところが、同じ頃に、父から「ご霊前でご祈念をしていたら、おじいちゃんの御霊(みたま)様が『信治くんを帰すように』と言っているから、教会へ戻ってくるように」と電話があり、社会で働く約束の年数を超えていたこともあって、それから2年後に私は教会へ戻りました。

神様にお任せしよう
 教会に戻ってすぐに金光教学院に入らせていただき、卒業後、会社員時代の後輩とバッタリ会い、お互いに独身だったことで、お付き合いをすることになりました。相手は東京、私は岡山でしたから、メールで連絡を取り合っていたのですが、わずか40日で振られてしまいました。私が頻繁(ひんぱん)に、「今日こんなことがあったよ。あんなことがあったよ」とメールを送っていたので、それがうっとうしかったのでしょう。「もう一緒に付き合っていく自信がないです」と言われたのです。それまでも何度か失恋は経験していたのですが、その時の失恋は本当につらくて、1年ほど心が晴れずに悶々(もんもん)としていました。
 けれども、それをきっかけに、恋愛や結婚について「自分の欲は出さない」と思えるようになり、「すべて神様にお任せしよう」と決めたのです。そうすると途端に縁談の話が来て、「最初に頂いた話で決めよう」と思っていたので、どんな方かも分からずに会いましたが、とても素敵な方で、結婚して、今日の幸せに至るわけです。失恋をとおして、私の中で神様との向き合い方が変わりました。もちろん今でも欲はありますが、「もうお任せしよう」「できるだけ自分の欲をなくしていこう」という姿勢に変わらされたのだと感じます。

祖父の信心あってこそ
 101歳でお国替えした祖父は、父親が若くして他界し、莫大(ばくだい)な借金を残していたために一家離散となり、父親を恨み続けていましたが、天王寺教会にお引き寄せを頂いて改心し、お道の教師となりました。  立派な教師になろうとして水をかぶるなど、さまざまな修行をしましたが、そのせいで病気になってしまい、三代金光様に教師をお断りするため、本部広前にお参りしました。祖父がお届けをすると三代様は、「病気は一心を立ててお願いなさったらおかげになります」とおっしゃったそうです。それで祖父は、「この体では駄目ですが…」と申すと、三代様は「人間は間違いを起こすことがあります。間違ったことは神様にお詫びなさって、反省なさったらおかげになります」とおっしゃったので、本部までの7キロの道のりを歩いて2時間、「100日間、日参させていただこう」と一心を立て、成り行きの中で、乙島に宿を借りることになったのです。  それから50日目のこと、参拝の途中にふと、「今まで『胃が悪い、胃が悪い』と思っていたけれど、私の心が間違っていた。神様から賜ったこの体を、自分の物のように思っていた。そうではなくて、神様から預かった大切な体なのだから、お礼とお詫びをしなければならなかった」と思って、自分の胃に手を合わせて、「今までごめんなさい」とお詫びをしたのです。  すると、すっと体が楽になり、病気のはずが楽にお参りをさせていただくことができました。お届けをすると三代様から、「結構なことです。明日からは、うちで拝んでおきなさい」と言われたそうです。そして次の日、家で拝んでいたら、人が参ってきたのです。それが乙島教会の始まりでした。  その祖父が生前に残した言葉を元にした色紙があります。  「目様、耳様、鼻様、口様、歯様、舌様、喉様、食道様、胃様、十二指腸様、小腸様、大腸様、直腸様、肛門様ありがとうございます。腎臓様、膀胱(ぼうこう)様、ありがとうございます。今日もお通じを頂きありがとうございます。体毒のお取り払いを頂きましてありがとうございます。お便所さん、お水さん、トイレットペーパーさん、タオルさん、お世話になりありがとうございます」  こんなふうに1日1300回、祖父はいろんなことにお礼を申していました。実は私がうつ状態になった時、まさにこの真似(まね)事を夜2時間、瞑想しながら、「目様、耳様、鼻様、口様ありがとうございます」と体中にお礼を申し上げ、その日のこと、上司や部下のこと、いろんな人のことを、「なにくそっ」と思いながらも、「ありがとうございます」とお唱えさせていただいていたのです。  そんな祖父の信心あってこそ、あの時の私が今こうして、ここに生かされているのだと感じています。

(2017/11)

   



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