神人あいよかけよの生活運動

HOME › 教会信奉者の方へ › 神人あいよかけよの生活運動 › 「教報天地」運動のページ

金光教報『天地』 4月号 神人あいよかけよの生活運動


私の生活に信心の【運動】を  井上 直文(宮城・石巻)

「運動」は体を動かしてこそ
 「神人あいよかけよの生活運動」では、「神人の道」が一人ひとりの生活に現されていくことが願われています。「生活に現される」ということですから、それは他でもない私自身が、実生活の中で生き生きと取り組んでこそ意味があるということでしょう。完全に理解してから行動に移すのではなく、取り組みながら「願い」への理解が深まっていくこともあり、そこから、さらなる実践が生まれるというサイクルを繰り返しながら広がりゆくのだと思います。
 そのためには、普段からお話を聴かせていただいたり、書物を読んだり、さまざまな実践例に触れながら、それを参考にして、自分自身がどう取り組むかを見いだす工夫が常に必要だと思います。
 私は「運動」という言葉から、いつも体を動かす【運動】をイメージします。【運動】は健康な体を維持したり、不健康な体にならないように予防したり、また、体を改善するためにとても大切で不可欠なことです。健康な体づくりのためにウォーキングやジョギング、体操、さらには武道や球技などのスポーツをします。あるいはしようと心掛けます。そして、その【運動】は自分に合った適度なもので、楽しくなければ続かないものです。やり方によっては時として体に害を及ぼしてしまうことさえもあります。
 これはまさに物事の道理ではないでしょうか。
 教祖様は、「みんな、よく物の道理を知って信心しなければならない」とみ教えくださっています。そこで、「健康な体」を「健康な信心」に置き換えて表してみます。
 「神人あいよかけよの生活運動」は、健康な信心を維持したり、不健康な信心にならないように予防したり、また、これまでの信心を改善するために不可欠なことです。健康な信心づくりのために「御取次を願い頂く」「神のおかげにめざめる」「お礼と喜びの生活をすすめる」「神心となって人を祈り助け導く」という「運動」をします。そして、その「運動」は自分に合った適度なもので、楽しくなければ続かないものです。
 「健康な信心」とは、神様が願われているおかげを求める信心であり、逆に「不健康な信心」とは、自分勝手なおかげを求める信心だと考えます。生活の中で、いろんな場面や事柄に当たって、それに合ったみ教えや「運動」の「願い」に地道に取り組み、健康な信心を進めることで、神様が願われているおかげを受け、立ち行くことができるのだと私は考えます。
 ここで、私の最近のささやかな取り組みを紹介します。

「願い」の3行目までは
 妻は毎日、車で通勤し、その途中、高速道路を5分ほど利用しています。ある日、帰り道で高速道路を走行している時、「突然タイヤが破裂し、一瞬ハンドル操作を失い、身が凍るほどの恐ろしさを味わった」そうです。「でも、おかげで停車場所やタイヤ交換の処置が都合よく進み、何とか帰り着くことができた」と、感情を高ぶらせて帰宅したことがありました。
 その時、私は遠方へ出掛ける時には、道中の安全を一生懸命に神様に願い、無事に帰ってきた時にはお礼の気持ちが出てくるのですが、毎日のことで遠くない所であるがゆえに、妻の通勤の安全を十分に祈れていなかったことを反省しました。
 「大きなことはお願いし、このくらいは構わないということはない。神には、大きいこと小さいことの区別はない。何事にも神のおかげをいただかなければならない」とのみ教えのとおり、いつでもどんなことでも、「御取次を願い頂く」心が大切なんだと気付かされました。
 また、地域で私も所属している、あるグループで、どうにも苦手で、会うのにもいくらかストレスを感じてしまう方がいます。私の一方的な思いであること、相手に悪気はないことも分かっていて、相済まない心持ちにもなるのですが、時には、会合などに出席するのをためらってしまうこともあります。
 そんな時、いつも「天が下の者はみな、神の氏子である。天が下に他人はない」というみ教えを自分に言い聞かせて、「あの人も私も、神様のおかげを受けている同じ神様の氏子同士なんだ。神様に仲立ちになってもらって触れ合えばいいんだ」と気持ちを前向きにして事を進めています。そうすると、その都度おかげを受けて、しのぐことができています。
 さらに、私は以前、食事のたびに、食べた物を飲み込むのに違和感を感じる日が続いたことがありました。その不快感がたまらず、意を決して、相応と思われる消化器科の病院で診察を受けたことがありました。その結果、食道炎と診断を受け、薬を服用して治療することになりました。
 「やれやれ困ったものだ。何が原因だったのだろうか。こんな状態がいつまで続くのだろう。神様に早く治るようにお願いせねば」と、病気にとらわれたような気分で過ごしていたところ、「痛いのが治ったことだけがありがたいのではない。いつも健康であるのがありがたいのである」というみ教えが思い出され、これまでにないほど、この教えが腑に落ちた思いがしました。
 そして、今、不快でたまらずに治療を受けているのは一カ所だけれども、治療を受けずに済んでいる所は、どんなにたくさんあることだろうと思い、内科や外科など、病院に何種類の科目があるのか調べてみたところ、一定の基準のもとに37もの診療科目があることを知りました。それからというもの、痛くない所にお礼と喜びを感じるように努めることができるようになり、不快な症状にもとらわれることなく、与えられた治療に前向きになることができました。

「立教160年御礼祈願詞」に思う
 今年は、立教160年という記念の年をお迎えし、教団では、「ご立教に込められた神様のおぼしめしと教祖様のご信心を頂き直し、『神人の道』が一人ひとりの生活に現されていくこと」を願い、各種の取り組みがなされています。その一つが、「立教160年御礼祈願詞」の奉唱です。これは、「この道のおかげの御礼と、ここからの信心生活の祈願」が込められたものだと頂いています。
 私はこの祈願詞の中の「数多の先人時を超え ひたすら伝えられ来し尊き道に 奇しき御神縁蒙りて受けしみかげは数えも敢えず…道のみかげを謝びまつらん」という文言が心に響いてなりません。今は亡き両親をはじめ、祖父母、曾祖父母、さらに曾祖父母を教会へとお手引きしてくれた方。教会で言えば、後継に入らせていただいた今の教会、生まれ育った故郷でお参りしていた教会、それぞれの親教会、その先もずっと続きます。その時代時代にお取次くださった先生方、歴代金光様、そして教祖様のお広前にたどり着きます。今、私がどれほど多くの人から願われ、祈られ、取り次がれて信心をさせていただくことができているのか。このすべてがなければ、私はこの道に生きることはなかったかもしれません。そして、今日まで受けてきた数えきれないおかげはなかったでしょう。
 そう思うと、この160年は、金光教の歴史であると同時に、私自身の歴史でもあると思えてなりません。お年柄に当たり、数多のご先祖や先輩方が何世代にも及んで、ただひとすじに伝えられて来たこの尊い信心の道に、今、ご神縁を蒙っている私であり、多くのかけがえのない方々に時を超えて祈られ、助けられ、導かれてきた私なのだということに思いを寄せる時、「ようもようも160年間今日まで」という喜びと、「もっともっと」という信心を進める元気が湧いてきます。そして、今度は私が、「神心となって人を祈り助け導く」番だと願いを一段と強くし、生活に現していこうと思いを新たにしています。
 私の「運動」の取り組みは、「願い」の理解を経て、1行1行を順を追って取り組んでいくというよりも、どの行からでも自由に、戻ることもできれば、飛ばしてもよく、過ちに気付かされたら、素直に何度でも修正していけばよいと思っています。取り組む期間も、今はここに取り組んでおかげを受けよう、明日はここ、来月はここ、というふうに自由でよいと思っています。要するに、私自身がわが事として、生き生きと「神様が願われる信心」に取り組み、「神様が喜ばれるおかげ」を受け現していくことが大切だと思っています。
(2019/4)

   



このページの先頭へ