神人あいよかけよの生活運動

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金光教報『天地』 11月号 神人あいよかけよの生活運動


置かれた場所で土になる 藤井雅孝(香川・陶)

病んでいた大学時代
 この原稿の締切がちょうど5回目の結婚記念日でした。当時のことを思い返すと、今の生活がとても感慨深く思えます。というのも、私は教会で生まれ育ちながら、平成25年に金光教学院に入学するまで、信心のない生活をしており、神様の御用をさせていただくようになるなど、想像もしていなかったのです。困った時の神頼みしかしてこなかった者が、今では毎日幸せを感じながら教会で生活をさせてもらっている。そんな私自身の歩みをあらためて振り返りたいと思います。
 ここまでの人生を少し思い返すだけでも、登校拒否、浪人、留年、心の病など、難儀のデパートのような人間でした。どれだけの人に心配と迷惑を掛けたことでしょう。25歳で何とか大学を卒業した頃は、人間関係の悩みから精神が衰弱していました。人と会うことが怖く、電話さえも極度の緊張に襲われてできないような状態です。病院に行っていれば病名が付いたかもしれませんが、病院さえも行くことができませんでした。
 ですから、大学卒業後は数カ月間、何もすることができず悶々としていましたが、周りの同世代は社会で活躍し、結婚や家の建築といった人生の大きな節目を迎えています。「今変わらなければ、一生このままだろう」と意を決し、社会と関わることを考えました。かといって、当時の自分にとって正社員として働くことは、ハードルが高すぎると感じていました。そんな時、ふと手に取ったチラシの求人欄が目に入りました。教会から10分程の製麺工場の募集で、そこに書かれていたのは、「週2~3日から、1日3~4時間程度の誰にでもできるお仕事です」とありました。勇気を振り絞って電話をかけ、面接を受けて、翌日から勤務することが決まりました。

「祟り」と言われて
 当時の私には、「こんな自分を採用してくださった」という思いがあり、指示されたことには全て「はい」と返事をし、一生懸命、頭と体を動かしました。それは心身のリハビリにもなり、日に日に心と体が活き活きしてくるのが分かりました。次第に職場の方にも信用されるようになり、働く日数と時間が増えていきました。
 そして2年後、私は工場の責任者となっていました。地方の小さな工場でしたが、規模の大きい会社でしたので、上場企業の管理職となったのです。わずか2年で状況が一変したことは、神様のお働きがあってのことですが、当時の私、神様不在の不信心者にとっては、何事も自分の努力で成し遂げられるのだと勘違いをしてしまった難儀の始まりでした。
 数年後、関西の大規模工場へ転勤となりました。しばらくは順調に進んでいた仕事でしたが、突如暗転します。せきを切ったように事故や製品不良などの問題が起こってきたのです。その時の私の業務といえば、製造現場で働く方の安全と、製品を食するお客様の安全を確保することが命題だったのですが、どちらも脅かされるようなことが次々と起こってきました。
 事故の知らせを受けて現場に駆け付けると、機械に挟まれて負傷した人が動けずにうめいています。その場を目の当たりにすることは、本当につらいものがありました。その方のけがが回復するにつれて、こちらの心も和らいでくるのですが、ほっとする間もなく何かが起こってきます。さすがに上司から「祟りじゃないか」とまで言われ、神社へお祓いに連れて行かれたこともありました。今となれば大きなお気付けを頂いていたと分かりますが、当時は「なぜ自分ばかりこんなことになるのか」と思っていたのです。
 それからしばらく経って現場が安定し始めると、仕事にも打ち込めるようになり、今まで以上に評価を得ようと、結果を出すことに躍起になりました。すると今度は面白いように結果がついてくるようになり、毎月定められる目標を達成できるようになりました。全てが自分の思いどおりになってきた頃、当時お付き合いをしていた方との結婚を考えるようになりました。
 在籍教会の大祭に帰省し、そのことを両親に伝えたところ、思わぬ大反対をされました。私としては仕事も順調で納得がいきません。けれども、いくら話しても平行線のままで、最終的には、「そんな話は学院に行ってからじゃ」と父から言われたことに、「それなら行ってやるわ」と楯突き、志なく金光教学院に入学することとなりました。本当にご無礼なことですが、「1年間我慢すればいいんだろ」という思いでご霊地へ修行に向かったのでした。

想像及ばぬ神様のおかげ
そんなことで、入学当初は全くやる気がありませんでしたが、ご霊地のお徳に浸り、教祖様のみ教えに触れさせていただくことで、曲がりなりにも神様へ心を向ける真似事をするようになります。ご祈念のたびに、「どうか家族が仲良くさせていただき、無事に結婚ができますように」と、しっかりお願いします。けれども、間違ったことは願っていないはずなのですが、どれだけお願いしても、思うようになるどころか、状況は悪化していきます。ますます両親との溝は深まり、彼女との関係もぎくしゃくするばかりです。「このままではいけない」と今まで以上にご祈念に力を入れましたが、とうとう、どうにもならないところまで来てしまいました。社会的な立場や収入、家族や結婚相手と、自分の力でいろんなものを手にしたつもりでいたのに、何もかも無くなってしまったのです。そこから自分は何のために学院へ来たのかと苦しむ日々が始まりました。
 目の前が真っ暗で、次第に体を動かすことさえままならなくなりました。そのような状態になってようやく、それまで何事も自分の力でしてきたと思っていたことが、大きな間違いであったと痛感しました。おのれの無力さを知った時、教祖様の奥城へ向かわずにはいられなくなり、やっとの思いで辿り着きました。
 初めて一心にお縋りしながら、不思議と感情は冷静になっていきました。その場で、「今までは、さも自分が正しいかのように、神様にああしてください、こうしてくださいと注文をしていたんだ」と気付かされ、ご無礼をお詫び申し上げ、「もし、このような自分にも願いをかけてくださっているのであれば、その願いのままに幸せにならせてください」とご祈念させていただきました。
 どのぐらいの時間が経ったか分かりませんが、ご祈念を終えて目を開くと、今までの世界とは何か違うような感覚を覚えました。そこからは、まるで神様が書かれたシナリオが見えるように、次々と起こってくる奇跡のような体験をさせていただきました。高徳な先生方のお話で、病気が日に日に薄紙を剥ぐようにおかげを頂いたという内容は耳にしていましたが、まさか私自身の我情我欲が生んだ難儀な状況までもが、日に日に変わっていくなど思いもしませんでした。
 また、何事も神様のお差し向けということも聞いていましたが、自分勝手な願いを取り払ったことで、出会う人、起こってくる全てのことが神様そのものであることを得心させていただきました。奇跡のようなことについては書くことを控えますが、結果として、学院を卒業した秋に結婚のおかげを頂きました。私には勿体ないような妻と出会い、二人の子どもを授かり、現在は両親と共に教会で御用をさせていただいています。苦しんでいた当時を思い返すと信じられないことです。
 教祖様は、「神にはなんでも願え。神は頼まれるのが役である」とみ教えくださっていますが、実際に全てが人間の思いどおりになることはありません。しかし、神様はただ願いをかなえてくださらない訳ではなく、その背後には、こちらには想像も及ばぬような大きな幸せを用意してくださっているのです。それは、神様の願いと自分の願いが合致した時に、初めて気付くことができるのだと思います。

飛びこんできた言葉
 長男をとおして、神様のみ思いを実感させていただいたことがあります。まだ2歳の頃のこと、急に「メロンが食べたい」と言い出しました。高価な物ですから、なかなか用意することはできません。「神様にお願いしようね」と言うと、一人でご祈念をし、「メロンが食べたいです」と言っています。愛らしいなと思って見ていましたが、しばらくすると近所の方がメロンを持って来られたのです。それには畏れ入るばかりでした。
 また、ある時には、近くのスーパーの衣料品コーナーで、かわいいキャラクターの服が陳列されているのを見て、「これが欲しい」と言います。その時も同じように「神様にお願いしようね」と言いました。するとその翌日、お参りに来られた方が「これを息子さんに」と、その服を持ってこられた時には、それが偶然ではなく、素直な願いを神様が受け取ってくださっているんだと教えられました。長男に起こった一連の出来事と、私がずっと感じてきた神様のお働きから、素直な心の大切さを知ると同時に、神様の期待に応えていくためには、いつまでも幼いままではなく、成長していかねばならないと思わされました。
 数年前のことです。私の周囲で、カトリックの修道女であり、ノートルダム清心学園理事長でもあった渡辺和子さんの『置かれた場所で咲きなさい』という本が話題になっていました。その頃の私は少し悩んでいました。香川県の陶という場所でお育ていただき、教師にもお取り立ていただいて、この場所で咲くというのは何をすることなのか、どうなることなのかと、答えを求めてもがいていました。そこには、変化のない日常を脱却し、目に見えるような結果が欲しいという気持ちもあったと思います。
 ある日、車の運転中にそのことを考えながら、神様にお伺いを立てていました。すると、目の前を走るトラックの荷台にこのようなことが書かれていたのです。「花よりも花を咲かせる土になれ」と。それを見た瞬間、自分は我が強く、咲こう咲こうとしているけれども、自然と花が咲いて実が実る、その土になることを神様が望まれていると気付かせていただいたのです。
 それ以来、心という土を耕すことを自分の役目として、日常の一切を土作りに必要な肥やしとして頂く稽古をしています。後から思い出したことですが、若い頃に人の助かりとは何か、何のために生きているのかということを考えて、お広前に座って、ぼーっと天地書附を眺めていた時、「おかげは和賀心にありって書いてあるやん。なんで書いてくれてるのに気付かずに悩んでたんやろ」と、すっきりしたことがありました。心が全てであり、和賀心ということを意識する機会があったにも関わらず、我の強さに埋もれてしまっていたのでした。

何気ないことのありがたさ
 数カ月前のこと、知り合いのSNS(インターネットを介して人間関係を構築できるスマホ・パソコン用のWebサービス)の投稿を見つけ、何気なく読んでいました。そこに書かれていたことを要約すると、「ある朝、ゴミ収集日だったことを時間ぎりぎりに思い出し、急いでゴミを持って玄関を開けたら、ちょうど回収作業中でした。助かったという思いで作業をしている方に『ありがとうございます。助かりました』とお礼を申すと、その方が本当に喜んでくださいました」という何気ないものだったのですが、「何だかいいな」と思い、心に引っ掛かっていました。
 その日の午後、運転中に信号のない横断歩道に差し掛かると、中学生くらいの女の子が見えます。交通量が多い場所でなかなか渡れない様子です。後続の車に距離があって停車できたので、手で「どうぞ」と合図しました。女の子は横断歩道を渡りきった後、こちらを向いて満面の笑みで会釈をしてくれました。特別なことではないのに、実に気持ちがいいのです。この気持ちが広がれば、世界は平和になるんだろうなという思いにならされました。
 「神人あいよかけよの生活運動」の「願い」を奉唱させていただいたり、文言を見返すたびに、これ以上ないほど、的確なものであると思わされます。それは教祖様に始まる信心が短い言葉で表現されているからでしょう。教祖様は「信心はみやすいものである」と教えてくださっています。また、「家業の業」とも言われています。目の前に訪れる人や出来事一つ一つを大切にできれば、当事者だけでなく、神様もお喜びくださると思います。まずは、一番長く時間を共にする家族から、お互いを大切にさせていただく稽古に取り組み、それが次第に広がっていけばありがたいと思い、今日も御用を努めさせていただいています。
(2019/11)

   



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