信心運動

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教報天地 3月号 神人あいよかけよの生活運動

「運動」の「願い」は信心の筋道

  本部では昨年、第三回教師セミナーを開催し、「神人あいよかけよの生活運動」への理解を深めるため、パネルディスカッションを行った。その概要を二回に分けて紹介する。パネリストは、山本正三師(布教一部長)、安武秀信師(教会部長)、西川良典師(大阪・藤井寺)、司会は布教一部次長。

司 会 このたびの「運動」をどのように受け止めていますか。

山 本 本部でのご用に当たる前、「このたびの『運動』は、先の『あいよかけよの生活運動』の内容を継承し、新展開するもの」と聞いて、当初は具体的なことは分からなかったのですが、本部から配布された各種の「運動」パンフレットなどを読ませていただくなかで、その目指すべき方向として、「神様と自分との関係を強め深める」ことが大切であることを理解しました。
 その後、本部に赴任し、発足に至るまでの資料などに目を通すなかで、この「運動」の「願い」が、教祖様に始まる道の信心と、助かりの筋道を要点的に表現したものであることを知り、「願い」の一行一行をその視点で見直してみると、これまでの自分の信心と、教会の初代や直信先覚の信心の歩みが、その流れのとおりになっていることに気づかされました。
 さらに、前教務総長の佐藤光俊先生がおっしゃっていた「神が助かる」ということが、「運動」の「願い」の背景にあり、その視点で自分自身の日々のご用を見直した時、それまではお結界で人が願い出てきたことを、一方的に神様にお届けし、ご祈念させていただくことで完結してしまっていたと感じました。つまり、苦しい時の神頼みのようなあり方を、知らず知らずのうちに私自身が信徒との関係に生み出していたのではないか、と気づかされました。

安 武 このたびの「運動」は、教団の活動方針で言えば、「結界取次の充実を促す運動」と捉えています。お取次と は日々、教師も信徒も、教主金光様がおっしゃられた「縦軸は神様と人がつながっています」という、神様との「縦軸」をより確かにしていくものなので、言い換えれば「神と人との関係再構築運動」と言えると思います。
 また、おかげを頂かなければならない立場から見た時は、端的に言えば、「おかげを頂きぬく運動」であり、私どもを包んでいる生神金光大神取次の働きが常にあって、その「生神金光大神取次を頂きぬく運動」とも言えます。私自身、「御取次を願い 頂き」「神のおかげにめざめ」という、おかげの自覚を深めることに取り組んでいますが、それは三行目以降にもつながっていきます。
 私の親教会である福岡県甘木教会の初代が、青年時代に問題を抱え、はじめて福岡県小倉教会にお参りされた時、桂松平先生は「天恩地恩」とお説きになり、お土地も神様のお体であることを聞いてびっくりし、天地が一変されました。そういう神様のお恵みのなかに生かされていたことに目覚め、往きとはまったく違う天地のなかを帰っていかれ、そのわずか二十日ほどの間に、自分を七年間苦しめていた二つの慢性病が全快します。ありがたい思いで、五日後に再びお参りされた時には、近所の人を連れてお参りされ、やがて村人のほとんどがお参りするようになりました。
 それこそ、「運動」の「願い」どおりのお働きであり、初代は最晩年まで、自分が教会にお参りされて気づかれたことを、繰り返しお話しになっています。そこのところを私も頂き、自分を振り返りながら信心を整理し、神様のおかげの自覚を日々深めていく稽古をさせていただいています。

西 川 今、宗教界に地殻変動が起こっていると言われます。信徒の教団離れという現象ですが、教会に行って先生に相談してという経路をたどらず、インターネットをとおして知りたい情報を求めるという、スピリチュアルな生き方を指向している人が増えています。その背景には、近代合理的な思想が発展し、それが宗教界にも影響を与え、奇跡などを救いの手段にしている宗教は、非合理的なものとして排除され、合理的に説明可能な信心こそ、今日に求められている宗教だということです。
 先年、刊行された書籍『取次に生きる』には、数十年前の生き生きした信仰が掲載されていますが、教団でいわれる教義、それに対して各教会の教説という分け方で言えば、教説がこの二、三十年の間に力を失ってきていると感じます。それが教会布教のうえにも現れ、教会がサロン化し、信心のリアリティー、血が通うような信心話が姿を消しつつあります。その意味では、教会布教と教団布教という信心の内容やあり方をもう一度見直し、信心の再活性化を図ることが大きな課題であると思います。
 いま一度、本教の中心軸をはっきりさせ、今日まで連綿と続けられてきた結界取次を支える信仰的な基盤をどう強化していくかということが、「願い」の文言に込められていると思います。

司 会 私は、この「運動」が信心継承を可能にするものとして捉えられるのではないか、と思っています。これまで信心を伝えるということが、さまざまなところで課題とされてきましたが、伝えたいという願いは持っていても、何を伝えたいのかが明確ではないと思っていました。
 例えば、「大病をしたが、おかげで全快した」ということを伝える時、その出来事が数年前ならまだ熱が残っていても、病気が治ったことだけで果たして信心が伝わるだろうか。また、そのお取次の中身を聞かせてもらっても、「懇々と教えていただきました」ということはあっても、「何を教えてもらい、何を取次いでもらったか」という中身が、実はお道のなかにそれほど残っていないのです。
 そのことを感じるなかで、「願い」が本教信心の助かりの筋道、信心の筋道であるとして、一つ一つのおかげ話をこの筋道に沿って整理していくと、「何が大切で、何を伝えればいいのか」が、私のなかで徐々にはっきりとし、とくに「神のおかげにめざめ」では、病気が治ったということが、実は病気をとおして神様と出会い、その神様が、私が信心してこなかったにもかかわらず命を授け、生かし育んでくださっていた「神のおかげにめざめ」という内容が含まれていることを確認させていただいています。
 そこに目覚めたことで、それまでの神様不在の生き方から神様中心の生活に変わっていった先祖がおり、その信心を受け継いできた私ということであれば、信心する意味が伝わりやすいのではないかと取り組んでいます。
 そのことに関わって、全教に配布された教会長教師用の「運動」パンフレットで、教祖様の道開きと生神金光大神取次という内容がありましたが、これは教祖様の道開きがご生涯をとおして何であったのか、という視点で取りまとめられています。
 まず、「立教神伝」によって神様から教祖様に取次をお頼みになられるのですが、「立教神伝」では、「取次とは何をどうすることなのか」が明確ではなく、そこから「取次とは何か」「どうすれば神のおかげが現れ、人が救われるのか」ということを、神様と教祖様が求めていかれるなかで見えてきたこととして、慶応三年の「金光大権現、これより神に用い。三神、天地神のひれいが見えだした。かたじけなく、金光、神が一礼申し、以後のため」というお知らせがあります。
 このお知らせは、同じく全教に配布された信奉者用の「運動」パンフレットの利守志野師の事例で言えば、「子どもの病気を治してほしい」という思いでお参りされた師に、おかげのなかに生かされて生きていることを取次がれ、「そういう私でありましたか」という思いになった時に、信心が始まり、その後に子どもの病気が治るという助かりの筋道が、神様と教祖様のところで確認されていくなかで頂かれたものです。そして、ついに明治六年のご神伝によって、天地の神の願いが表明され、取次とは何かということが表明されたとして、取りまとめられています。

西 川 教祖様は四十二歳のご大患をとおして、金神に無礼があったことをおわびされ、改まられて以後、神様の思いに添っていかれますが、教祖様のご理解は、その時に自分が助かっていかれたことを土台にしておられます。はじめは事柄が成就するしないというところから、安政五年には手や口にお知らせを頂かれ、やがて生活の全面にわたってご神意を頂くという信心を求められ、そのなかで具体的に問題が解決していくには、心のあり方や生き方、神様への無礼ということに大きなウエイトがあることを感得されました。そして、絶えずそうした生き方を求められ、人間全体に及ぶ普遍性のある信心に展開していかれたことは、押さえておかなければならないと思います。

山 本 先程の「何を伝えたいのかが漠然としている」ということから、母の実家に当たる教会の初代の入信状況を振り返ると、確かにどういうみ教えによって変わったかということが残っていませんでした。
 初代である祖父は、奥様を三人とも三十三歳で亡くし、火事や水害にも遭われ、まさに丸裸の状況で三番目の奥様が亡くなった時、「残りの人生は、亡くなった三人の妻たちのために、寺の掃除でもさせてもらいながら過ごそう」と思われたそうです。そういう思いでいた時、三番目の奥様が教会の子弟だったことで、義父から、「そういうつもりなら、親教会へ修行に入りなさい」と言われ、そこで師匠から「とにかくお結界の前に座れ。そして、話を聞け」と言われたのです。残された記録を見ると、一年間は朝から晩までずっとご理解があったというのですが、それがどういうお話だったのかは残っていなかったのです。
 それは、この「運動」で言えば、「御取次を願い 頂き」というところに置かれているのですが、祖父がその後、どのように「神のおかげにめざめ」「お礼と喜びの生活」になったのかが見えませんでした。しかし、あらためて読み探してみると、師匠から何十回となく言われた言葉が一つだけあったのです。それは、「あなたたちは、すぐに人や物を当てにしてしまうからいけない。神様を当てにさせてもらわないといけない。神様に向かうということを、なぜしないのか」という言葉でした。
 祖父は一年間、師匠からずっと話を聞かされ、布教に出させていただきました。ところが、その布教先は前任者が大変な問題を起こしたところでした。そこを願いをかけられ、「だからこそ、このお道の正しい信心を伝えなければいけない。お前が行かなければならない」ということで送り出されたのです。そうしたことだけが心に残っていたのですが、「運動」の「願い」を照らした時、先程の一言に出合わせていただいたのです。それは、私の在籍教会の初代も同じようなところを通っていて、信心の筋道、助かりの筋道が、この「運動」の「願い」にあることに気づかされたのです。

司 会 「願い」が信心や助かりの筋道だとすると、次に押さえるべきは「願い」の一行一行の意味だと思います。

安 武 一行目の「御取次を願い 頂き」には、信徒がお結界でお取次を願い頂くということと、常に目に見えない生神金光大神の取次を頂くということがあります。私が布教当初にご用に行き詰まり、ようやく前に一歩進めることができた頃、近所の子どもが漫画本を持ってきて、「これ、見せてやる」と言いました。何となく読んでみると、忍者の頭領が殿様から「忍法の極意を見せよ」と言われ、大広間のふすまを取り払って、敷居の上をスタスタと歩いてみせ、「これが忍法の極意です」と言いました。それで殿様が「そんなことは子どもでもできる」と言うと、「敷居が百間千間の谷にかかっていても、同じように歩けます」と答えました。私はその時、「これは神様が私にご理解くださっている」と思えました。
 その頃の私は、自分なりに信心が分かったつもりでいました。しかし、それは絶対に落ちることのない畳の敷居を歩くようなもので、いざ布教に出てみると、信者から持ち込まれる問題は一つ間違えればどうなるか分からないものばかりで、足がすくんで歩けない。いかに自分の信心が貧弱なものかが分かった時、「子守りの歌もあだに聞いてはならない」と教えられているように、さまざまな形で神様がお働きくださっていることに耳を傾け、心の目を開き、気づかせていただくことが大切だと悟りました。
 また、生神金光大神取次を願い頂く一つには、日々のご祈念があると思っています。ご祈念のなかで、「私は十歳の時、十八歳の時、二十五歳の時に、こうでした。三十、四十、五十、五十五歳、その時々にこれだけのおかげを頂いて、今日の自分があります。さらに、その間を埋めるように日々、こういう働きを頂いています」と、自分なりに整理し、自覚し、神様にお礼を申し上げていく。これを日々させてもらうことが、取次を頂いておかげの自覚を深めるということだと頂いています。

西 川 教祖様のお取次が成立していく過程を見ると、すでに「立教神伝」を頂かれる前の安政五年末には、お取次の準備段階として、部屋の模様替えや据えごたつを置かれるなどの場作りをなさっています。教祖様ご自身も、神様がどういう方向に自分を導こうとされているのか、神様との話し合いをずいぶんされたと思うのです。「自分はこうしたい」「もっと一家が繁盛して、子孫が立ち行くおかげを頂きたい」という思いもあられたと思いますが、だんだんとご神意に従っていかれます。そして、奇跡的なおかげが起こっていくなかで、自分の内にある自分を超えた神様、わが心の神というものが、自分という存在をとおして現れていくことに目覚めていかれました。
 だから教祖様ご自身も、「生神金光大神様」とお唱えになり、生神金光大神様のお取次を願われ、ご理解をなさったのではないでしょうか。それは一朝一夕にできたものではなく、常に神様におうかがいし、言われることに身を任せるということを積み重ねながら、神様のご信用を頂かれたのです。それが結果として、慶応三年の「取次金光大権現のひれいをもって、神の助かり」という神自身の助かりになり、「ここに神が生まれる」というご理解になっていったと押さえています。 (次回に続く) 

(2013/03)


   





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