信心運動

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教報天地 11月号 神人あいよかけよの生活運動

心を神様に向けて

 本年九月九日に金光北ウィングやつなみホールで開催された「教師セミナー」で、山田良枝師(広島・安浦)が話された内容を抜粋して紹介する。

神様に使っていただく
 平成二十一年十一月二十九日、夫であり、先代教会長である山田譲先生がお国替えになりました。先代は、どんなことも親教会でお取次を頂くことを貫いた人で、私たちにも常々、「そこを外しては、おかげにならない」と申していました。
 その翌年、私はご本部から、布教功労者報徳祭で教話のご用をするようにと、ご命を頂きました。私は親教会である呉教会に参拝し、「私には荷が重すぎますので、お断りさせていただきとうございます」とお届けしたところ、親先生は、「ご用に、大きい小さいはないでしょう。これからご用をさせていただくなかで、いろいろな事柄が起こってきます。その時、逃げてばかりはできないでしょう。神様からのご用を断って、次にあなたが神様にお願いした時、神様がお断りになったらどうするのですか。ありがたくお受けして、おかげを頂かれたらどうですか」と言われました。
 私はそのお言葉を頂いて、「どうぞ、このことがありがたく思わせていただきますように。しゃんと腹入れさせていただきますように」と、神様にお願いさせていただきました。はじめは気が重く、「私にできるだろうか」と不安でいっぱいでしたが、お話の稽古をさせていただくうちに変化が生まれ、次第に「これは人に聞いていただくというより、今日までおかげを頂いてきたことへの神様へのお礼として、神様に聞いていただこう」という気持ちになりました。それまで人に向かっていた心が神様のほうに向かうことで、気持ちが軽くなりました。
 ちょうどその頃、私の実家である玖波教会の父が話した文章を目にしました。ある日、父が兄に「『弘法、筆を選ばず』という言葉を知っているか」と聞いた時、「昔、弘法大師という方がおられ、どんな筆を持たれても、上手な字を書かれたという意味です」と答えると、父は「そうじゃ。しかし、こういう意味もある」と言って、次のような話をしたのです。
 「弘法大師が筆を選ばないというのは、良い筆なら、その筆でないと書けない字を書き、悪い筆なら、その悪い筆でないと書けない字を書くということで、良い筆でも悪い筆でも、その筆を生かして、その筆でないと書けない字を書くということだ。例えばお前が筆だとして、その書き手は誰か。神様に、お前という筆を使ってもらえばいい。神様が書き手なら、どんないい字を書いてくださるか分からない。良い筆になろうと思わんでいい。神様から書きやすい筆だと言ってもらえたら、それでいい。それならできるだろう」
 この話を読んだ時、「神様は、私という筆を使って、いったいどのような字をお書きになるのかなあ。楽しみだなあ」と思え、わくわくした気持ちに変わっていきました。「神様にお任せするとは、こういう気持ちではないか。不安のない、安心の世界があるんだなあ」と思えてきました。親先生から言われた「ありがたくお受けして、おかげを頂かれたらどうですか」という意味が、ようやく分かったような気がしました。 

先代教会長の帰幽
 先代教会長のお国替えは、私たち家族にとっても、信者さんにとっても、つらく悲しい出来事でした。立教百五十年記念講演会での講師のご用を終えた後、それまでも体調が優れず、病院嫌いだった先代が、はじめて自分から「病院に行ってみよう」と申しました。すぐに病院に行くと、胃がんと診断されました。
 一か月後に手術を受け、胃の四分の三を切除しましたが、リンパ節にも転移していたので、抗がん剤治療を受けることになりました。病気が発覚してからお国替えまでのわずか九か月間に、私はたくさんの体験をさせていただきました。
 先代が亡くなる数日前、とても天気のよい日があり、許可を頂いて車椅子で病院の外を散歩させていただきました。日差しを体いっぱいに受け、「ああ、気持ちがええなあ」とお日様に向かって手を合わせていました。天地の働きを体中で感じ、先代が天地と同化していくような気がしました。
 次の日、以前からお願いしていた個室が空き、その日から私も病院に泊まれるようになりました。しかし、急激に病状が悪化し、三日目の夜、もう一人では起き上がることもできない状態になりました。
 その夜、苦しい息遣いのなか、何度も「起こしてくれ、起こしてくれ」と言い、起きては横になるということを繰り返した後、再び「起こしてくれ」と言うので、私は「もういいですから休んでください」と申しました。すると先代は、自分では起き上がる力などないはずなのに、ベッドの柵を両手で握りしめ、「エイ!」と何とも表現しようのない声で体を起こして正座し、掲げていたご神米に向かって深々と頭を下げた後、バタンと倒れ、そのまま帰らぬ人となりました。
 私はその時、つらく苦しい思いと裏腹に、なぜか心が救われたような気持ちになりました。「死んだからというて、神のおかげを受けずにはおられまいが。死に際にもお願いせよ」とのみ教えそのままに、先代は、ここまでの命のお礼、ご用にお使いいただいたことのお礼をせずにはいられなかったのだと思います。その信心の集大成が現れたのだと思います。

霊様の助かりとは
 先代が亡くなった後、着ていた服を見ては泣き、履いていた靴を見ては泣き、という毎日を過ごしていました。一人でご祈念をさせていただく時は、いつも涙があふれてご祈念にならず、大きな声で名前を呼んだり、何も考えられずじっと座っていたこともありました。
 ご祈念時には、「なぜ、私がここに座っているのだろう」と思うこともしばしばありました。やり場のない気持ちのまま、信者さんのお届けに耳を傾けながら、「このような状況になさったのは、神様、あなたです。力のない私にご用せよとおっしゃったのですから、氏子信奉者の願いは、神様、あなたが責任を取ってください」と、根限りの思いをぶつけたこともありました。
 先代の後を、教会長としてご用に立たなければならなくなった私は、信者さんたちにつらい顔は見せられません。おかげを頂いている姿でなければ、道が立ちません。その頃は本当に必死で、神様に向かわせていただきました。そして、ご祈念を続けるなか、ふと、「この私の思いは、そのまま神様の思いではないか。助からない氏子を見るのは、こんなにもつらいものなのか」という思いになり、神様のみ心に触れさせていただいたような気がしました。
 平成二十二年三月、ご霊地で教会長・教師研修会があり、講師の先生にご挨拶をさせていただいた時、「霊みたま様が助かるも助からないも、これからのあなたの信心にかかっていますよ」とおっしゃられました。私は訳もなく涙があふれてきました。教会に帰り、あらためて先生のお言葉を考えた時、自分が苦しいということばかりを思って、霊様の助かりなど思ってもいなかったことに気づきました。私が信心して助からないと、霊様も助からないということをはじめて思わせていただき、ここから進むべき道を示してくださったのだと思いました。
 ある日、ご霊前で心中祈念をしていると、「私が今、ここに座らせていただけるのも、歴代教会長先生の信心のお徳と辛抱、ご修行があってのこと。もったいないことだなあ」という思いが湧いてきました。そして、「その並々ならぬご苦労のなかを、こうして私は何の苦労もなく、教会に住まわせていただいている。私がご用させていただくということは、歴代教会長先生の思いを受け継がせていただくということだ」と分からせていただくと、私の後ろに歴代教会長先生のみならず、歴代金光様がずっとついていてくださり、私を支えてくださっていると思うことができたのです。

私は一人ではない
 平成二十三年十一月七日、本部広前のお結界で、大祭の御礼と月参拝の御礼をさせていただき、ご神米が下がる間、平伏していた時に、金光様が祈ってくださっていることを体で感じ、ありがたい気持ちでいっぱいになりました。そのままお広前でご祈念をさせていただこうと、目をつぶって柏手を打った途端、パッと目の前に先代が柏手を打っている姿が現れました。紺のスーツを着て、私の右斜め前に座り、頭を少し垂れ、大きく柏手を打っていました。胸がいっぱいになり、ありがたいやら、うれしいやら、涙がポロポロと流れ落ちました。
 本部広前と金光様のお徳を頂いて、先代に会わせていただきました。奥城参拝にも、いつもの早足で私の二、三メートル先を歩く姿が見え、一緒に奥城参拝をさせていただくことができました。「亡くなった人が夢で会いに来てくれる」とよく聞きますが、先代が亡くなってから、私は一度も先代の夢を見たことがありません。どうして私のところに出てきてくれないのだろうと、寂しく思っていました。この体験があってからは、あらためて私は一人ではない、先代がいつも私の側で一緒にご用をしてくれていたと実感させていただきました。
 「神様は無駄事はなされない」とみ教えにありますが、先代との死別という経験をとおして、「神様は私にどのような願いをかけておられるのか。今の私だからこそ、できることがあるのではないか」と思っています。

父の信心、母の信心
 玖波教会の父は、戦後まもない時に布教に出、私が二十歳の時、六十四歳で亡くなりました。父は穏やかな優しい人で、絶対的に安心できる存在でした。常に「人を軽く見ない」ということを心がけていたようです。私たちを大切にしてくれ、幼い頃から食卓に家族が集まると、いつもにぎやかで楽しく、神様の話が当たり前のようにされていたのを覚えています。
 その父が次第に体調を崩していった頃、私が父の足をさすりながら、「お父さん、年取って動けんようになったら、私が面倒みてあげるからね」と言ったことがあります。すると父は即座に、「わしの面倒は神様がみてくださる」と申しました。娘がそのように言ったらうれしいはずですが、信心で外してはならないところを教えてくれたのです。それは、どこまでも神様に身を委ねる、お任せするという父の信心姿勢でした。
 母は大変おとなしい人で、声を荒げて物を言った記憶がありません。辛抱強く、父と共に布教に出てからは、言うに言えない苦労をしてきたと思いますが、不足がましいことを聞いたことがありません。今になって、その尊いあり方が思われ、その偉大さを感じています。
 母は六年前、あと三日で九十二歳を迎える平成十九年十一月二十五日、お国替えをしました。その日の朝、もう湯水も通らない状態でしたが、「喉が渇いた」と言うので、義姉がご神米とご神水を口に含ませたところ、ゴックンと喉を通ったそうです。亡くなる間際まで「金光様、金光様」とみ名を唱え、最期にご神米とご神水を頂いて、天寿を全うさせていただきました。
 晩年、苦労のしどおしであった母に、「よく辛抱できたね」と姉が言った時、母は「私は何の苦労もしていないよ。お父さんの言うとおりにしてきただけよ」と穏やかな表情で答えたそうです。教会家庭に育った私は、経済的には不自由もありましたが、精神的には大変なぜいたくをさせていただいたと思います。両親から受け継いだ信心のバトンを、今度は私が子どもたちに渡していくことが、父母が一番喜んでくれることではないかと思います。

改まりからおかげが
 私の好きな言葉に、「心が動けば、体が動く」という言葉があります。どんなに条件がそろっていても、心が動かなければ、事は成就しません。反対に、条件がそろっていなくても、心が動けば、それをなしうるために知恵を働かせ、体が動いて、事は成就していくのだと思います。
 しかし、自分の心であっても、なかなか思いどおりに動かないのが実際です。心をよいほうへ動かすために、お取次が必要であり、何事もまずお取次を頂くことから始まり、自分が得心して取り組んでいくことが大事だと思います。得心すれば、気づくということにつながり、気づきは改まりとなっていきます。そのためには、常に信心のアンテナを張っておくことが大切だと思います。
 「気づく」「改まる」ということについて、平成二十三年七月十日、ご本部に月参拝をさせていただいた時のことです。暑い日で、駐車場に車を停め、月例祭と奥城に参拝させていただき、駐車場に戻った時には汗だくになっていました。車のドアを開けると、熱風が出てきました。「これはたまらない」と思い、クーラーを最大限にして車を走らせ、ようやく涼しくなったのでクーラーを弱めると、どこからともなく生暖かい風を感じました。「尋常でない暑さだから、クーラーの調子が悪くなったのかもしれない」と思いながら、はっと気づいたことがありました。
 ご本部の駐車場に車を停めた時、「帰りは車内の温度が高くなる」と思い、運転席と助手席の窓を少し開けていたのです。窓を閉めてからは快適に教会まで帰りましたが、「車のクーラーは神様のおかげと同じだ」と気づきました。神様はクーラーのように、こちらがスイッチを入れさえすれば、与えどおしにおかげをくださいます。しかし、受ける側がそれだけの体勢になっていなければ、おかげは漏れてしまいます。車の窓を少し開けていたのと同じで、その原因に気づいて自分が改まると、神様のおかげは十分に頂くことができるのです。「おかげが頂けない」と聞くことがありますが、その原因が自分にあることに気づいて改まりさえすれば、神様のおかげは頂きどおしに頂けるのではないかと思います。

日々の稽古から
 教会長になったばかりの頃、定時のご祈念後、み教えをもとに教話をしていました。いつも事前にその日のみ教えを見て、「きょうはどのようなお話をさせてもらおうか」と考えていました。そうしないと不安でした。
 ところがある日、み教えを見ても何も浮かんできません。ご祈念中も何も浮かんでこず、そのまま教話の時間となりました。私は開き直って、「神様、あとはお任せいたします」という気持ちで、お結界に座りました。
 すると、私の口からつらつらとお話が出てきました。その時、「教話というのは私がするのではない。お結界という場のお徳を頂いて、神様のご用にお使いいただけばよいのだ」と思いました。
 私は、このたびの「運動」の「願い」について、「『御取次を願い 頂き』『神のおかげにめざめ』『お礼と喜びの生活をすすめ』は理解できても、後の『神心となって 人を祈り 助け 導き』『神人の道を現そう』は理解できない」と思っていました。しかし、ふと、「『神心となって 人を祈り 助け 導き』とは、神様のおぼしめしを頂いて、神様のご用として自分という者を使っていただく。そのような意味があるのではないか」と感じました。それは、先代や実家の両親が大切にしてきた信心でした。
 今、私は、「神様に自分という者を使っていただき、ご神願成就のお役に立たせていただく」こと、「生活のなかで、神様、金光様につながる心と行動になっていく」ことを、日々願い、稽古させていただいているところです。

(2013/11)

   



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