神人あいよかけよの生活運動

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教報天地 4月号 神人あいよかけよの生活運動


                             
 思いから生まれるもの

 信行期間に当たって、本部では「教祖様ご生誕200年─お礼と喜びの生活を─」というテーマで、「朝の教話」が行われました。その中から、高橋斉師(愛媛・三津浜)が話された内容を抜粋して紹介いたします。


 私は信心の師匠から、「信心生活」ということについて教えていただいたことがあります。その意味を尋ねると、次のように教えてくださいました。
 「あのなあ、例えば、信心して『おかげを頂いた』と言う人がおるじゃろう。けれども、それは例えるなら、のりでおかげをペタっと引っ付けているのと一緒で、そのおかげが自分のなかへ入ってないから、それを自分のモノにするためには、そのおかげを使うことがいる。『おかげを使う』ということは、別に難しいことではなく、朝起きたらまずそのことを思う。それから、何か事があって思い出した時には、またそれをあらためて思う。この『思い』があれば、自分の生活で、手足をとおして、いろいろ働きが生まれる。だから、自分の生活のなかで繰り返し思うこと。それが信心を生活のなかに使うということなんじゃ」
 このように教えてくださった後、「思うことが願いになるからなあ。だから、悪いことばかり思わず、ええことを思うようにしなさいよ」と教えてくださいました。それは、自分の思いが願いになり、願いから手足をとおして働きが生まれるという、信心の順序を教えてくださったと頂いていますが、そのことに関わって、ある方の話を紹介します。

「お笑いなめとるんか」
 それは私が、大阪にある芸人さんの学校を訪ねた時のことです。そこで講師をしていた方の授業を見学させていただく機会を頂きました。
 30人ほどの生徒さんが、3分以内で漫才やコントを披露し、それを講師が批評するという内容ですが、最初の生徒さんの漫才が終わった途端、講師から「おまえら、お笑いなめとんのか」という怒鳴り声が飛びました。続く生徒さんたちも頭ごなしに叱られ、見ているのもいたたまれないほどでした。授業の後、「生徒さんに厳しく接しておられますね」と尋ねると、「そうなんですよ。実はね…」と話されたことに、その方が生徒たちに厳しくされる理由を納得させられました。
 その方の本業は漫才作家で、芸人さんが舞台で演じる漫才やコントの台本を書くという仕事をされていました。幼い頃からぜんそくを患い、毎日のように発作が起き、小学三年生までは学校にもほとんど通えず、家と病院を行ったり来たりの生活だったそうです。たまに登校すると、クラスメートから心ない言葉を浴びせられました。「どうして自分だけがこんなに不幸なのか」と思いながら、ある日、発作で苦しんでいると、お母さんが背中をさすりながら、「ごめんね、ごめんね」と涙を流したそうです。その瞬間、「僕もしんどいけど、お母さんはもっとしんどい思いをしているんだ」と、子供心に思ったそうです。
 やがて高校生になった時、今度は心臓発作で倒れ、命は取り留めましたが、長い療養生活を余儀なくされました。それでも、一度はなかった命を救われたという思いから、「一人でトイレに行けた」「何とかご飯が食べられた」というように、日常生活のささいな出来事が喜びになっていきました。
 当時の楽しみは、ある芸人さんが司会するラジオ番組を聴くことでした。その番組で漫才の台本を募集するコーナーがあり、思い切って投稿するとラジオで紹介されました。うれしくて次の台本を送ると、また紹介されるということが続き、ある日、ラジオをとおして司会の芸人さんから、「あなた、漫才作家になったらええのに」と言われました。それで「自分の進むべき道はこれだ」と思い、それを支えに五年間の療養生活を終え、その後、都会に出て、今の仕事に就いたというお話でした。
 「お笑い」という浮き沈みの激しい世界にあって、漫才作家という仕事を続けてこられた理由は、幼い頃からのつらい体験から、悲しみを抱えている人をどうすれば笑わせることができるかが分かるから、ということでした。病気がなかったら、今の自分はない。だから、お笑いを志す若い人たちに一生懸命お笑いと向き合ってほしい。そういう思いが、生徒さんたちへの厳しい接し方につながっていたのです。

親心は神様のお心
 その話を聞かせていただいた時、これはお道の信心に通じる生き方だと思わせられました。「どうして自分だけがこんなに不幸なのか」と思いながら育った方が、病を乗り越え、元気で仕事に励み、後に続く人たちを育てている。なぜ、そのように思いが切り替わったのかといえば、お母さんが背中をさすりながら、「ごめんね、ごめんね」と涙を流した。「僕もしんどいけど、もっとしんどい思いをしている人がいたんだ」と、子を思う親の心を知った時、自分の病気を受け入れられる心構えができたのだと思います。もしお母さんが、世をはかなんだり、わが子の病気を誰かのせいにするような生き方をしていたならば、この方はいつまでも「自分は不幸だ」という思いにとらわれていたかもしれません。
 このことを神様と私たちの関係に重ね合わせると、私たちがおかげを頂く、助かりに導かれるということは、神様の「おかげを受けてくれよ。信心して助かってくれよ」という思いやお働きが、先に働いているということだと思います。親の心にはすごい力と働きがあるし、親の心と子どもの心はつながっている。同様に、神様の心と氏子である私たちの心も本来はつながっているのだと思うのです。
 「神様は人の口を借りて言わしめる」と教えられていますが、神様はラジオの芸人さんの口をとおして、「あなた、漫才作家になったらいいのに」と、進むべき道を示されました。「どうして自分だけがこんなに不幸なのか」という思いで生きていたら、そのお声は素通りしていたと思います。つまり、いくら「助かってくれよ」と願ってくださっていても、それを受け止める側の心構えができていなければ、おかげは漏れてしまうのです。
 大切なことは、私たちが願うより先に、神様が私たちのことを願ってくださっている。その神様のお心に気づかせていただくということです。そして、そのお心に気づいたならば、そのお働きが自分の心をすり抜けてしまわないように、日常生活のなかでお礼の心を土台に、自分にできる信心をさせていただき、そのお働きを受け止めていくだけの心を育んでいくことだと思います。

「人間は心が第一ぞ」
 金光教教典の尋求教語録に、「心正しくして後に身修まるということがあるが、何事によらず人間は心が第一ぞ。心には信心の肥をせぬと、なかなか正しゅうはならぬ」という教えがあります。痩せた土地には実りが少ないように、痩せた心には実りが少ないのが天地の道理であり、土地を耕したり、肥料をまいたりするのと同じように、心には信心という肥やしがいります。肥やしがなければ、心は正しいものにはなりません。その一番の肥やしが、「ありがたい」という思いを持ちながらの生活であり、そのような一日一日を積み重ねていかなければ、神様のお働きも生まれてくるはずがありません。
 「神人の道」を歩まれた教祖様、歴代金光様、お道の先輩方から信心を伝えられての今の自分であることに喜びと誇りを持ち、手もとの一つ一つを大切にしながら、神様から頂いた心そのままに、「ありがたい」という思いが働きとして現れてくる生活をさせていただきたいと思います。

(2014/4)

   



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