神人あいよかけよの生活運動

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金光教報『天地』 6月号 神人あいよかけよの生活運動


生かされて生きている

今市教会の教会誌『いまいち』に掲載された森山修師(島根・今市)の教話の内容を抜粋して紹介する。


神様との縦軸があって
 「神人あいよかけよの生活運動」が、平成24年に発足して今年で4年目です。あらためて、この生活運動の願いはどこにあるのかを再確認したいと思います。
 まず、なぜ、この生活運動の名称に、「神人」という言葉がついたのかということですが、それは、教主金光様が平成21年に、「神人の道」というお書き下げをくださった、そのおぼしめしを頂いてのことです。「神人の道」とのお言葉を頂くについては、ある信奉者に「縦軸は神様と人、横軸は人と人とがつながっています」とご理解くださっていますように、この生活運動の肝心なところは、一つに「縦軸」と仰せになる神様のお働きのなかで、私たちがどのように生きていくか、という神様と人間との間柄を抜かさないようすること。二つに、「横軸」である人間関係や生活の上に起きてくるさまざまな問題に、私たちがどのように取り組んでいくか、という生活実践運動であることです。

神様に一筋にすがれ
 私が新年に教会で頂いたみ教えは、「神あっての氏子、氏子あっての神だから、どんな時でも神様に一筋にすがれよ、道が開ける」でした。このことこそ、私が神様との間柄、「縦軸」をどう頂くかのみ教えであると思っています。
 ちょうど今年の寒の信行期間に、毎朝、教祖伝『金光大神』の内容を頂いてきました。あらためて教祖様の生きられ方は、ただひたすらに神様にわが心を向けたご生涯であったことを再認識させていただきました。生きとし生けるものすべてが、天地の神のみ働きのなかで生かされて生きている。それゆえに教祖様は、「神あっての氏子」の生き方を一貫しておられました。そして、人として神様のみ心に添いまつる実意丁寧なあり方を求め続けられたご一生であったと頂くことが出来ました。

病のなかにもご用のおかげ
 さて、先のみ教え「神あっての氏子、氏子あっての神だから、どんな時でも神様に一筋にすがれよ、道が開ける」をどのように頂いていくか、私につきつけられたわけですから、あらためて近年の私の身体のことを思い起こしました。
 まずは、高血圧と腎臓機能の低下症状のなかで、教団会議員6年間のご用のおかげを頂きつつ、教会にあっては、平成19年には、今市布教80年祭の大きな節年のご用も皆さんと共にお繰り合わせを頂きました。その間には、2度の一過性脳虚血障害の症状にも出遭いながら、大事に至らぬおかげもこうむりました。日々、綱渡りのようなご用であったと思い起こしています。
 平成22年正月からは、腎不全症状がひどくなり、腹膜透析の治療を受けることになりました。毎日、教会にあって、昼も夜も透析液のお世話になりながら、注液、排液を繰り返し、体内の除水をするなかで、日々のご用にお引き回しいただくことになりました。
 この腹膜透析治療がなかったら、私の日々の生命を保つことすら出来なかったでしょうし、ましてや教会ご用に使ってもいただけませんでした。今年で5年と2か月、よくも毎日毎日「透析液様」の働きを頂いて、毒素や老廃物を取り除いて生かされてきたものと、あらためてお礼を申しています。

「何を心配しているのか」
 ところが、昨年末から血液検査の二つの項目が、心配な状況が続き、また体重のコントロールが少しずつ整わなくなってきました。食事量や飲水量は、相当に気をつけて努力していても体重が落ちないのです。透析による除水は十分に出来ているのに、どうしてだろうかと、その心配は一時も離れません。それでも気分や体調がひどくなるということもなく、私の体は、日々変わらず早朝からのご用ができています。「何を心配しているのか。それはありがたいことではないのか」と思い返させていただいています。
 さて、このように、「心配」が勝つのか、「ありがたさ」が勝つのか、私の心のなかで、コロコロと変わるのです。「透析液」も拝めた、「排液」も拝めた、一つひとつ、腹膜透析にかかわるすべてにお礼が言えたのは偽物だったのか。そんなはずはない。今こうしてご用ができているのは、5年2か月のその治療があってのこと。また、家族が食事のこと、治療の手順のこと、睡眠のことなど、体調の一つひとつを心配りしてくれたおかげである。これほどまでの限りない神様の大きなお守りのなかで、ご用にお引き回しいただいてきたのです。

明るい明日を迎えるために
 「神様のおかげのなかで生かされて生きてきた」ことは紛れもない事実であり、わが心がありがたさで満たされた日々でした。この今までこうむってきたおかげの事実を、あらためて味わいながら、その時々のありがたさを、小さな器に詰め込んで、しまいこんでしまわないようにしなければいけません。
 そして、さらに症状がよくなるために、必ずここから私がさせていただくことがあるはずです。神様からお示しになる治療が頂けるものと信じて、「明日」を迎えたいのです。ご信者さん一人ひとりの祈念のために、人が助かる教会ご用にお引き回しいただくために、神様が差し向けてくださる道があると信じて、自分自身のことも祈りつつ、その時を待ちたいのです。そうすると、少しずつ、私の「明日」が明るくなっていく様に思えてきます。「神あっての氏子、氏子あっての神だから、どんな時でも神様に一筋にすがれよ、道が開ける」のみ教えを、今、私が頂く時だと感じています。

(2015/6)

   



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