神人あいよかけよの生活運動

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金光教報『天地』 8月号 神人あいよかけよの生活運動


信心による助かり

昨年、洲本教会の生神金光大神大祭の教話で、井上昌直師(兵庫・豊岡)が話された内容を抜粋して紹介いたします。


原因不明の病に
 Aさんは、30数年前に胃がんの手術をされ、おかげを頂いてこられました。ところが、平成20年12月に市民検診で引っ掛かり、翌年1月に肝臓に小さな血管腫が見つかりました。それから様子を見ているなかで、1年後に再検査をした結果、肝臓がんと宣告されたのです。けれども、神様に導かれるように手術台に登るおかげを頂かれ、手術も無事に済みました。
 ところが、秋口ごろから、だんだんと身体が倦怠(けんたい)感に見舞われ、血液検査で重い貧血状態であることが分かりました。肝臓によくない増血剤は使えず、貧血の原因を見つけようと、いろいろと検査をしました。11月に入り、立ちくらみ、めまい、さらには歩くと心臓の鼓動が激しくなることから歩くことも困難になりました。四日朝に家庭医であるTクリニックで診察を受け、その足で紹介状を持って豊岡病院に行ったところ、輸血を受けながらそのまま入院となりました。
 その翌日、Aさんがトイレに入り、何となく身体が変だと感じて緊急ベルを押したと思ったところで意識を無くしてしまいました。その時に、「行く道が違うでしょう」という男の人の声でAさんははっと気がついたのですが、トイレのなかを見ても人の姿はなく「あっ、今の声は金光様だ。金光様が助けて下さった」と直感されたそうです。その時、ノックがあり、二人の看護師に助け出されました。一人暮らしの家ではなく病院で、という場所のおかげを頂いたことを神様にお礼を申し上げながら、出血場所の検査が続きましたが、15日間の入院でも原因は見つかりませんでした。
 12月に入ると、Tクリニックから電話があり、貧血の状態が悪いため外出を禁止されました。Tクリニックの医師は、医師会で豊岡病院の主治医と相談されましたが、結局原因が分からず、「どうも難しい」ということでした。

心から練りだした実践
 Aさんはだんだん声が沈んでくるし、元気もありません。たびたび「死にたくない」と言われ、不安と焦燥感で気力も弱くなっていきます。「このままでは、もう心の方が先に折れてしまう」という危惧を感じたところから、私は「命のおかげを頂こうと思えば、命がけの信心をしなさい。まず、今頂いている命にしっかりお礼申し、心配は神様に預けて命がけでおすがりしなさい」と申しました。Aさんにしてみれば厳しい内容だったと思います。しかし、「命にかかわること」をおかげにさせていただくには、「ままよ」という心で、神様に、問題に体当たりし、全力で押して願い、全力で受けてこそ「おかげが受けられる」のです。
 そこからAさんの腹も据わり、翌日から、細く繋いでいただいている命のお礼参拝にお引き寄せいただき、一日の命のお願いを一心にされるようになりました。医師から外出禁止令が出されているなか、必死で歩いてお参りになるのです。これは、本人が自分の心から練り出して形に表した信心実践ですから、私も止めるわけにはいきませんでした。
 そこで私にできることは、後ろ祈念、祈り添えをさせていただきながら、本人が願いを切らさず押して願い続け、「ままよ」の心になるようお取次させていただくことでした。
 「今、あなたは辛いし苦しいし、貧血もひどいけれども、今もおかげを頂いているなあ。食べる物を食べれば、ちゃんと体のなかで消化して排せつもしてくださるし、熱も高くもなく低くもなく、そういう状態を保ってくださっている。どこにどのような原因があって、今、貧血をしているか。それは分からないけれども、そのなかでも今の今をおかげを頂いているということに心の重心を置いた一日一日であってほしいなあ」
 Aさんは毎日教会に参拝し、話を聴くだけで、心が変わっていきました。このように、ありがたいことを一つ、二つと見つければ、今抱えている苦しさを耐える元気が生まれます。神様が心のなかにお生まれくださり、支えてくださるのです。その繰り返しの日々でした。
 翌23年1月20日、その日は豊岡病院の消化器科の予約日で、採血の結果、鉄分や貧血の状態がさらに悪化していました。医師から外出禁止と言われながらも日参を続けているのに、検査の結果は少しも良くならないのです。
 ところがその時、主治医から、「今度、豊岡病院もカメラの入ったカプセルを取り寄せることになったから、それを小腸の検査に飲んでみますか」と言われ、最後の頼みの検査に臨むことになりました。1月の終わりにカプセルが入り、2月8日入院、9日検査と決まり、Aさんは前日に教会に参拝し、神様と一緒の心持ちで入院をされました。
 9日の9時に単三電池ほどの大きさのカプセルを飲み、そのまま5時までその状態が続きます。Aさんは「金光様お願いします!おかげに変えて下さい!私に死への道を歩かさないで下さい!」と強く願い、「金光様、カメラさん、出血場所を見つけて下さい」と祈り続けておられました。
 5時に機械を外し、部屋に帰りしばらくすると、主治医が見え、出血らしき場所が写っていると言われます。そして、小腸の一番発見しにくい所が破れていることが分かり、翌10日、内視鏡で2時間掛けて治療され、おかげを頂いたのでした。このカメラが豊岡病院に入るということも、Aさんにとっては本当におかげのなかの出来事でした。

神様と共に歩む
 今、Aさんは毎日、元気に参拝されており、来られると開口一番、「先生、今日も新たな命を繋いでいただいております。お礼申し上げます。どうぞこの頂いた命を今日一日お使い下さい」と、お礼のお取次から始まっています。
 こういう形で神様のお繰り合わせ、おかげというものは、本当に私たちが考えも及ばないところに、スッスッと道がつくのです。ところが、「ああ、良いおかげを頂いたなあ」「私もあのようなおかげが頂きたいものだ」と、「おかげ」の方ばかりに目が向いてしまうのが目に見えたおかげ話の落とし穴です。そうではなくて、「どういう信心をしたら、こういうおかげに結び付いたか」ということを聴かせていただかないといけません。
 「神は平等におかげを授けるが、受け物が悪ければおかげが漏るぞ」という教えがあります。神様は平等におかげを下さっているけれど、おかげは一人一人の心のありよう、「信心の器」に応じて公平に現れてくるのです。教祖様はこの教えをとおして、「神からおかげが出ると思わず、自分自分の信心からおかげが生み出されてくると思って、お一人お一人の信心をあつくしなさい」と仰せられていると、頂きます。
 このように、信心をすればいろいろなおかげが形として現れてきます。けれども、そのおかげばかりを追うのではなく、おかげが生み出される元としての、私たちの心のなかの「信心の器づくり」を、共々に励ませていただきたいと思います。
 教祖様は、何か特別な修行によるのではなく、日常生活を神様のおかげのなかで営ませていただいていることに思いを深めて、神様との応答関係を一段と豊かに結んでいくことが大切であると教えてくださっています。私は、この道の信心とは、いわば日々、神様と共に歩む生き方を習慣化する営みだと思うのです。いつもいつも、ありがたいことを見つけようとする。いつもいつも、神様のみ心に思いをはせようとする。人を思いやることや、相手の立場に立つことを習慣にする。お取次を頂くことを習慣にする。そういう心のありようを習慣づけていく日々の営みこそが大切なのです。
 私たちも日々、神様のおかげのなかでのことをしっかりかみしめ、そのことを習慣化していくことの大切さを、共々にあらためて自覚させていただけたらありがたいと思います。

(2015/8)

   



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